勉強は無意味





なんで人は誰か先人から教わろうとするのか。私にはその意味が解らない。確かに答えややり方を誰かから教えてもらうと、それを覚えるだけでで自分は全てをマスターしてしまった気になる。それに覚えるだけで、自分で考えなくていいので極めて楽だ。しかしそれで身に付くものは、同じ問題が出たときに同じように答を出せる能力だけである。勉強によって得られるものはあくまでも知識だけであり、どれだけ勉強したところで本質的な課題解決力が養われるわけではない。

しかし自分で「発見」した答えを得るプロセスは、未知の課題に対してソリューションを導くことに繋がる。自ら答を発見しない限り、その奥義や真髄は永遠にわからないのだ。道を究めたいためには教わったらオシマイ。自分で発見しなくては自分のものにならない。それは、単なるファクトや公式を覚えていることが大事なのではなく、そこに至るプロセスを自分のものとしているかどうかが重要だからだ。

かつて江戸時代には、親方や師匠は何も教えず、ひたすらその現場を見る中から自分で発見して自分のものとしてゆくのが修行だった。それはテクニックを教えてしまったのでは自分のデッドコピーが出来上がるだけで、次代に継承・発展させてゆく人材を育てることが出来ないという意味では非常に合理的なやり方だったといえる。美術や工芸はもちろん、武芸や職人技などの領域でもこのようなやり方が行われ江戸時代の文化発展の礎となった。

それが明治になって西欧列強に「追いつき追い越せ」が至上命題となると、発明・発見が相次いでいた19世紀当時の先端科学技術をとにかく促成栽培で導入する必要が生じた。そのため、自分で発見することより、とにかく西欧の先端学問を丸覚えすることの方を重視するようになった。そして教育システムも、そのためにオプティマイズしたものが構築された。これが今に至る「秀才重視」「詰め込み重視」の教育の起源である。

このやり方だと「追いつく」ことはできるし、それもかなりスピーディーにこなすことができる。「追い越す」ためにはひとまず追いつかなくてはいけないので、そこまでの「助走」という意味では勉強も意味がある。しかし勉強した知識だけではどうやっても「追い越す」ことはできない。いわゆる「スリップストリーム走法」である。トップのミスに乗じるしかトップに立つことができないというのでは、本当に追い越したことにはならない。

勉強は追いつき追い越せという後発フォロワーにとってはワンステップとして重要なやり方だが、これだけでは何も新しい可能性は生まれてこない。それは覚えた知識では、全く同じ問題は解くことが出来ても、それを利用して未知の問題を解決することは出来ないからだ。他人から教わり、その教わった知識を使って物事をやっている間は、やれることは教えた人のクローンであり、それを乗り越えることは永遠に出来ない。

しかし、自分で答えを発見してそのファクトが出てきたプロセスをマスターしていれば、そのパスファインディング術を活用して、未知の問題の答を導き出せる可能性が強くなる。そもそも自分で考えるという習慣が身についているだけでも大きく違う。「追いつき追い越せ」の「助走」と同じように、最初は教わった通りにやったとしても、そこから自分なりの発見をし、自分独自のやり方を編み出さなくては、師匠越えは出来ないのだ。

世の中の情報化が進む前は、人間は自分の頭の中に記憶している情報しか利用できなかった。このため、情報蓄積を増やすという意味で「勉強」が奨励された。産業社会においては、その嚆矢たる産業革命以降、常にトップランナーとフォロワーが存在した。フォロワーにとっては、ひとまず追いつくことがなにより最重要課題となった。このためには、ひとまず最先端の知識や技術を学んでそっくりマネできることが求められた。こういう状況下だからこそ、「勉強」することが重視されたのだ。

もちろん勉強した事例の中から、自分が新たな「発見」するということももちろんある。そういう意味では、座学が全く無意味というわけではない。しかし、すでに先人の知恵が入っている学問の中からさらに自分が新たに発見するというのは、相当に能力の高い人間でないと出来ない技である。そういう人ならば、自分で見たり感じたりしたことからもすでに多くのことを発見し自分のものとしているはずだ。

しかし情報化の進展とともに、外部の情報も自分の中の記憶と同様に扱える環境が現出した。人間が扱える情報は、脳の中の記憶だけではない。世の中のあらゆる情報に瞬時にアクセスできる環境が出来上がった。記憶がたくさんある人よりも、自分の外部にある多くの情報を組み合わせて自分が求めている結果に纏め上げることができる人の方が、情報社会においては強いしより求められている能力でなのである。そしてこういう能力は天賦のもので勉強や努力で何とかなるものではない。

いつも言っているように、天賦の才能のある人が、その才能をもっと尖らせるために努力することは意味がある。しかし「0」に何を掛けても0のまま。0とはそういう性質なのだ。いくら努力しても成果はない。だから「頑張ったプロセスを評価してくれ」となるが、今はもはやそういう能天気な時代ではない。もはや勉強は無意味な時代なのだ。教育も知識の詰め込みから、天賦の才能のある人材を発掘するものへと変わる必要がある。とはいえ、今の教育界・教育システムでは全く歯が立たないのも確かだが。


(21/05/28)

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