権利と義務





権利と義務の関係については、法学を学んだことのある人ならある程度理解があると思うのだが、野党の政治家や支持者の間にはとても理解しがたい解釈をしている人が多い。野党の議員でも、弁護士出身とか法学を修めた人はいると思うのだが、常識が無いのか、わかった上で曲解しているのかしらないが、およそ素人以下の論理を平然と繰り出してくる。これでは法学に疎い有権者の中にはあっさり騙されてしまう人もいるかもしれない。まあ、もとよりそういう人々を騙して票につなげようという魂胆なのかもしれないが。

彼等がなんと言おうと、権利と義務の関係については脈々と培われた法学上の解釈が確立しているのも確かである。それを捻じ曲げて自分の都合のいい主張にするというのは、ウソでありフェイクである。世の中、ウソだけは程度問題ではなく、行った時点で「クロ」になってしまう重大な犯罪行為である。「ウソ」であったというだけで、詐欺罪の「構成要件該当性」が成り立ち、充分犯罪として立件できてしまう。ウソを暴くためにも、権利と義務の関係をきちんと知ることは国民の勤めといってよい。

まず「権利」とはいかなるものか考えてみよう。法律用語としては「一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力」意味する。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。このように法治主義のもとにおいては、各個人が有する権利は、社会制度との関係においてそれが保障されるものであり、権利は法に基づき各個人に付与される特権として理解される。

​「私権」とは民法を中心とする私法上の権利のことをいい、相互に対等な者との間の法律関係を権利義務関係で捉えることを前提にした概念である。そもそも権利という概念は私権を元にして成立したものである。「有斐閣法律用語辞典 第4版」には「ある権利主体が私法上有する権利の総称。公権に対する語。相互に対等、平等な権利主体間の権利。財産と身分に関する法律関係において認められる権利。その内容により、物権、債権等の財産権と、人格権、身分権などの非財産権とに分類される。私権は絶対的なものではなく、その内容及び行使は公共の福祉によって制限され、これに違反するものは権利の濫用とされる。」と記載されている。

「公権」とは公法上の権利のことをいい、「私権」考え方を拡大し、国家と私人とが権利義務関係にあるという考え方を前提として成立する概念である。公権はさらに、国家が私人に対して有する国家的公権と、私人が国家に対して有する個人的公権に分かれる。同じく「有斐閣法律用語辞典 第4版」では「公法上の権利。私権に対する語で、公義務に対応する概念。国家あるいは公共団体などの行政主体が私人に対してもつ権利(組織権、刑罰権、警察権、公用負担権、統制権など)と、私人が国家あるいは公共団体などの行政主体に対してもつ権利(参政権、受益権、自由権など)とに分けられる。」と記載されている。

こうやって定義に立ち戻って見てゆくと、私法上の「私権」においては権利義務が表裏一体の関係になっていることは明白である。公法上の「公権」も、本来は「私権」の延長上で捉えられる、国家や地方公共団体など公的な権力と私人との間の権利義務関係である。法治国家においてはそれを法律として規定しなくてはならないため、法学的には区別されることになるが、権利そのものの持つ構造という意味では全く同一であり、「公権」においても権利義務は表裏一体の関係になっている。だからこそ、法学を知っている人はきちんと正しい理解ができるのである。

私法関係で認められる権利としては、物権、債権、親権などがあり、公法関係で認められる権利としては、刑罰権等の国家的公権と、選挙権等の参政権、訴権等の受益権、自由権などの個人的公権とがある。もっとも、私法と公法との区別に問題があるように、どのような権利が私権になるか公権になるかは、明確ではない場合もある。例えば、国家賠償請求権は、国家と私人との関係という点からは公権としての性質を有するとも言えるが、不法行為に基づく損害賠償請求権の一種としてとらえると、財産権の主体である国庫と私人との関係であり私権と考えることも可能である。

問題は、自然権と法律上規定された私人が公的な権力に対して持つ公権との関係である。自然権としての人権は、社会や国家などの制度に先行して存在すると解釈されることがあるからだ。「法的規定以前に人間が本性上もっている権利」を「自然権」と呼ぶ。伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成原理に援用した際に生れた近代的な観念である。思想的先駆は T.ホッブズで,彼は個人の生存の欲求とそれを正当化するための力を自然権として肯定した。J.ロックは「国家はこの自然権を保障するための組織であるから,いかなる国家権力も自然権を侵害することは許されない」とした。

そのルーツが「自然法」にある以上、元々は宗教(アブラハム宗教の一神教)と密接な関係があり、神から人間本性に与えられたものと解されてきた。ただし、このような近世よりも前の時代においては自然法に関する議論に重きが置かれ、自然権自体に対する関心は決して高くはなかった。しかも、古代・中世を通じて、自然権は、客観的に正しい秩序に服すべき人間が持っている自然的義務対応する権利と考えられていた。その場合、人間への自然権付与の前提としてのその自然的義務を課す存在(神)が常に想定されていた。

18世紀以降、自然権の観念は各国の憲法に条文として取り入れられるようになった。最も早く採用したのはアメリカとフランスで、まず1776年にアメリカで採択されたバージニア権利章典は、第1条において「全ての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、ある先天的な権利を持っている」と規定した。続いて1789年にフランスで採択されたフランス人権宣言は、第1条において「人は、自由かつ権利に置いて平等なものとして出生し、存在する」と規定した。

もっとも、憲法をはじめとする法律の条文として取り入れられてしまった以上、アプリオリに自然権や自然法が存在するかどうかではなく、基本的人権などの諸権利も全て憲法などの法律によって規定され保証されるものであると理解されることになる。実際に現在の民主主義国の多くでは、自然権とされてきた諸権利は憲法などに規定されている。日本においても、自然権は日本国憲法により「基本的人権」として保障されている。

現代のほとんどの国では、自然権と呼ばれる人権も、法律により規定している以上、それを保障しているのは法律であり、決して超法規的な権利として存在しているわけではないというのが、法治国家の基本原理となっている。ここで重要なのは、最低限の人間としてのアイデンティティーの確保、まさに基本的人権の尊重は普遍的な価値を持つが、法治国家においてはそれが超法規的な存在としてより成文法より上位概念に置いたり、法律として規定されていないものを権利として主張することは難しい。

もし、新たな権利を社会的に認めさせたいのであれば、それは民主主義の法治国家であれば、まず法律を制定し、それによって権利を保証するというプロセスを取る必要がある。自己の権利を実力行使などにより暴力的に認めさせようというのは、まさにテロリストの所業である。あるいはどうしてもそういうプロセスが好きなのであれば、まず民主主義の法治国家であることを廃止させることを考えなくてはおかしい。

この重要性は、皮肉的だが自分の意見だけが正しくてそれを相手に押し付けたくて仕方ない人と、相手に干渉せず迷惑をかけない範囲であれば思想信条の多様性を認める人がぶつかっている状況を考えればよくわかる。それぞれが主張する「基本的人権」が違うのだ。そもそも自然権は宗教の教義に由来するものなので、宗教や宗派が違えばその内容は違って当り前である。それを現代社会の中でウマく調整するためには、法律による規定がなにより必要となるからだ。

個人的には決して賛成できる主張とは思えないが、独裁的な全体主義国家を好み、それを実現させようという主張も、思想信条の自由がある以上他人に強制しない限り認められるべきだ。その思想を押し付けて他人に迷惑をかけないない限り、何を理想としても自由でなければ多様性は担保されないからだ。そういう意味では、超法規的に過剰な「人権」を主張される人は、「我々は、現体制を暴力的に破壊することを目指すテロリストである」いうことをまず主張し、実際に体制転覆の方から手を付けていただきたいものだ。


(21/06/04)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる