左翼は情報社会では生き残れない





左翼や共産主義は、水が高きから低きに流れるように、悟ったエリートが飢えた貧しい人民を救うのだという「超上から目線」で、実際食うに困る生活を送っていた貧しい人民を惹きつけることで成立していた。これはエリートと大衆との情報格差を前提として、エリートだけが「正義」を理解でき、愚かな大衆を救うべく共産主義政権を打ち立てるという大義名分により、権力者による独裁を正当化していたからだ。

明らかに大衆を愚弄した視点だが、階級格差が激しくボリュームゾーンの大衆が「人間以下」の生活しかできていない状況でならば、それなりに妥当性があった。そもそもロシアや中国など、それまで庶民が農奴のような生活しか出来ていなかった国でしか共産主義政権が成立しなかったのは、それが理由である。もともと激しい生活レベルの格差があったからこそ、ちょっとマシになって飯が食えるというだけで、庶民層は大喜びし、熱烈に支持した。

典型的なのが、毛沢東率いる中国共産党の戦略である。長征の途中において、それまで歴代の王朝からは収奪の対象としか見られなかった農民に、食料を与えることで共産党への支持を獲得した。この結果じわじわと共産党への支持が広がり、勢力圏も着実に拡大してゆく。その一方で農民に対しては歴代の王朝同様の収奪政策しかとらなかった国民党は徐々に支持を失い、最終的に国共内戦で政権を奪われる。食わせること。貧しい社会ではそれは最高の政策であった。

政権奪取のプロセスとしては「超上から目線」の愚衆観はそれなりに役立つことは明らかだ。しかしその構造は、奪取した政権維持のためにはあまり効果がない。それなりに腹を満たせるようになった大衆は、ただ「食える」だけでは満足しなくなり、次第に覚醒して次なる要求をするようになる。こういう動きが強まると、権力エリートの側は一旦得た独占的な権力を何とか維持することが至上課題となってくる。

「赤い貴族」である権力エリートは、貧しい人民の上に立って君臨する支配階級である。その階級構造の化けの皮がはがれてしまうのが、なにより支配層にとっては恐ろしかった。そこで登場するのが、左翼や共産主義に付きものの「情報統制」である。かつての共産圏では、情報統制が激しかった。その分、地下出版や手刷りの新聞など、レジスタンスよろしく、反体制側も情報戦を仕掛けた。このあたりの様子は、冷戦時代のスパイ小説ではよく描写されていた。

本当に自分達のやり方が大衆から支持されるという自信があるのであれば、なにも情報統制をする必要はない。自分達のプロパガンダに自信があるなら、それを華々しく発信すれば人々は支持するはずである。しかし自分達がダブルスタンダードであることは、共産主義国家で権力を握っている階層自体が誰よりも良く理解している。ある種確信犯なのだ。それゆえ、権力エリートの側は、常に自分達がやったように覚醒した大衆によって権力を奪取されるのではないかという悪夢におびえることになる。

真実が知れれば、自分達の権力が危ういことを良く知ってるだけに、大衆を情報から遠ざかる政策を取り続けなくてはならない。左翼にとっては、自分達が「ハダカの王様」になってしまう「情報社会」が一番恐いのだ。だから社会の情報化は極力否定する。そしてそういう社会を理想としている以上、自分達が情報化された社会の中でどう生きていくかなど考えられるはずもない。そもそもハナから情報社会を否定しているのだ。

かくして左翼は情弱となる。これは必然の結果といえる。野党の政治家がSNSを使いこなせず、書けば書くほどブーメランの嵐になって自分の矛先が自分に向かってしまう状況になることは多い。それであわてて書き込みを消すと、今度は消した書き込みの「魚拓」が次々とアップロードされ逃げ切れなくなる。というより、野党の政治家や左翼の活動家、リベラルな学者などは、皆が皆このジレンマに嵌っていると言っていいだろう。

情報が統制された社会を理想とし、そういう状況しか想定していないから、社会の情報化についてゆけないのだ。それだけでなく、自分が理想としている虚構の世界の中に没入しきってしまい、現実を現実としてとらえようとしないので、ファクトを見極める力が退化してしまっている。自分の目でファクトを見切れる能力は、情報が氾濫する情報化社会では極めて重要になっている。左翼は二重の意味で情報化社会から疎外され逃避している。

これでは絶滅危惧種になってしまうのも当たり前である。それだけでなく、同類ということなのだろうか、左翼やリベラルに擦り寄ってくる人達も、情弱な人に限られるようになっている。まあ、そういう意味では確かに「弱者」、それも「情報弱者」の集団になっていることは間違いない。筒井康隆氏の1968年の短編に「九十年安保の全学連」という新左翼が絶滅危惧種になってしまう小説があったが、まさに慧眼。そろそろ天然記念物にでも指定して保護しないといけないかも。


(21/06/11)

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