ゲームチェンジャーとしての立法府





法治主義の民主国家における三権分立の元では、行政と司法はひたすら法律の規定に従うしかない。そこで、行政と司法においては前例主義と形式要件が跋扈することになるが、それは三権分立の基本に忠実であろうとすれば仕方ないことである。前例を改め、実質を重視するのであれば、それに即して法律を作るか改正する。それによって行政と司法が勝手な行動や判断に走るのを防止している。

そういう意味では、日本において行政の一員である官僚が実質的に法案を作り、その中で自分達の運用解釈のアローワンスを広く取って行政のフリーハンドを増すというのは、民主主義としては言語道断の行為である。とはいえ、それも明治以来一世紀以上続く「伝統の悪習」となっており、まさに「前例」そのものになっているので、この発想を抜け出すことは極めて難しいかもしれない。

しかし三権分立の元では、その法律が効力を持つには議会で可決されなくてはならない。機構上は行政がノーチェックで法律を作れるわけではない。このように立法府が持っている最大の強みは、「法律を作れる」ことにある。どんな法律も作れるし、憲法すらも国民の支持があればも改正できるのが、法治主義における立法府としての議会である。

まさに、パラダイムシフトを起こし、ゲームチェンジャーたれるのは、三権分立を前提とすると議会しかないのだ。ともするとこの重要な役割を忘れがちであるが、これこそ民主主義の基本である。まあ昨今の野党は「ゴネて与党の足を引っ張る場」ぐらいにしか国会を考えていないように見えるが、とんだ勘違いである。ルールを変えられるのは三権の中では議会しかないのだ。

日本でも憲政初期の明治期の帝国議会は、当時の有権者が納税額による制限選挙であったがゆえに、税金の使い道に対しては厳しくチェックし、時として政府と激しく対立し問題箇所を修正させることも多かった。特に軍備や鉄道の敷設など、国家として必要ではあるものの費用対効果の曖昧な支出に対しては厳しく追及し、緊縮財政を実現したことを忘れてはならない。

これこそ、代表として選ばれた議員の果たすべき役割である。国民の代表とはこういうことなのだ。議会の役目は与党として議院内閣制で政府の母体となることでも、野党として何にでも反対してバラ撒きに預かろうとすることでもない。ほかの「二権」に対しての「国民からのお目付け役」として、それらが国民の利害に反する独善的な判断や行動をしないようにチェックし審判することなのだ。

合理性のない予算は通さないし、決算でも国民の不利益が発見されればきちんと追及して筋を通す。まさに、行革をはじめとする改革を行う主体は、三権分立の考え方に立つ限り、立法府の役目なのだ。行政・司法が現状肯定的にならざるを得ない以上、勧善懲悪で現状の問題点をばっさりと斬って、新しいスキームを構築する主体は議会しかない。

というより、行政にはそういうメンタリティーはないし、そもそも法制度自体をいじる権限はないので、自律的な改革は不可能である。それは行革という言葉が主張されるようになってからの30年以上の歴史が示している。改革を主張する官僚もいないわけではないが、彼等も官僚制度そのものを否定することは決してない。悪い官僚が牛耳っているのが問題で、自分達のような良い官僚に任せるべきだという、目糞鼻糞の理論である。

チェック機能からもう一歩進めて、議会であれば議員立法で時代に合わなくなった法律や制度と抜本的に改革することも可能である。行政が法案を作るというのは、泥棒に警備をさせるようなものだ。必ずお手盛りで自分達に都合の良いスキームを作り出してしまう。20世紀後半以降続く、このような状態自体の異常さを誰も理解しなくなっていることが危険なのだ。

そうであるならば、議会に議席を占める政党は、まずこの国をどのようにしてゆくかを明確にして選挙を争うべきである。変えるのか、変えないのか。国民の何を重視して守るのか。国民の敵である官僚・行政のカウンターパワーたれるのは、議会だけである。そしてその緊張構造を保つのが三権分立なのだ。そこに到達するのは長い道のりかも知れないが、少なくとも政治家自身が強い権力欲で動くという状態だけはまず回避すべきだ。それが改革への第一歩となるだろう。


(21/06/25)

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