学者と多様性






自然科学においては、真理は一つというのが基本的なテーゼである。もちろん、その真理自体はいろいろな発見によって時代時代ごとに代わる。新たな事実が発見されれば、過去の理論を包含した上で、その新しい事実も併せて体系化できるような新たな理論が求められる。そして、その新理論をめぐる議論の中で「定説」を確立することが、学問としての本懐であった。こうして科学は発展していったのだ。

その分「天動説と地動説」のように、議論においてはどちらが正しいかというリニアな対立になりがちである。「どちらでもよい」というような多様性を許さないことになる。このために必要なのが追証である。数々の実験やデータを重ねた新たな理論が発表されると、その追試を多くの学者が行うことにより、どちらがより妥当性を持つかを判別する。そしてり妥当性が高いと皆が判断した方にと、理論が書き換えられる。

量子力学がその初期において異端視されたのも、その理論自体が多様性を前提とし容認するものであったため、それまでの自然科学的な「正統性」の判断となじまなかったことによるものであるのは間違いない。ニュートン力学のように「0」か「1」かというデジタルな捉え方ではない、極めて融通無碍な見方ができなくては理解できない量子力学は、それまでの物理学にどっぷり浸った学者にとっては許しがたい存在であったろう。

自然科学はもちろんだが、人文科学・社会科学においても、一部の統計処理を基本に置く計量的な体系を持つ学問においては、自然科学と同様の傾向がある。統計的に有意なあるかどうかで、どちらがより正しいかが立証できるので、第三者による追試も可能である。それらにより数学的検証が行えれば問題なく新発見/理論体系の書き換えとなるが、時として微妙な誤差範囲をどうとらえるかなど、解釈の問題に陥ることもままある。

その一方で哲学や神学のように全く観念的なものについては、もともと検証のしようがないものであり、そもそも対立含みでいろいろな体系が「我こそは真理」とばかりに覇権を競うことになる。まさに「神学論争」「禅問答」と揶揄されるように、そもそも背負って立つバックグラウンドが違うのだから、議論もできないし、第三者的な検証もできない。こうなると、もはや「宗教戦争」で決着をつけるしかなくなる。

「十字軍」の世界に入ってしまえば、これはもはや学問の世界ではない。宗教、それもアブラハム宗教のような「ルーツの同じ一神教」同士の対立である。これでは、相手を物理的に殲滅するまで決着がつかない。まあ、学問の世界ではそこまで血が流れることはまれだ(血は流れないが「首」が飛ぶ「白い巨塔」のような世界もあるので、皆無とは言えない)。いずれにしろアカデミックな体系を維持するためには、一神教的な排他性が必然的に付きまとう。

この結果、学問の道を究める学者・研究者は、どうしても多様性の対極にある「一つの真理」を追い求め、それにすがる習性が身についてしまう。基本的習性がこうなってくると、本来の学問以外の領域においても、この習性が露見してしまうようになる。アカデミックな世界に身を置く有識者が、ともすると価値観の多様性に寛容でなく、自分の意見を相手に押し付けようとする傾向があるのはこのためである。

特にリベラル派の論客といわれる人にはこういうアカデミックな有識者が多く、それがまた唯我独尊的な主義主張を生み出すベースにもなっている。左翼系の社会科学は、19世紀後半に社会主義運動のプロパガンダとして構築されたものがルーツとなっており、論理性というよりは宗教的な観念性が強く、そもそもそういうものに惹かれる人ほどより排他的なセクト主義に陥りやすいという構造的問題も含んでいる。

しかし学問であっても、本当に見識のある学者であれば、いろいろな異論・異説にも排除することなく耳を傾け、それを検証することによってどちらがより妥当かを考えるであろう。そして自説に問題があれば、その両者を矛盾なく成り立たせる新しい体系の構築を目指すであろう。科学の進歩への道を開ける学者は、こういう心の寛さを持っている。ところが、こういう幅広い視野とマインドを持っている人は、日本ではあまりアカデミックな道には進まない。

どちらかというと、もともと社会性がなく偏屈で視野が狭い人ほど、社会に出るチャンスを失ったから大学に残って学者になるという流れが、この数十年続いている。ある意味、日本の学界自体が、どぶの底のヘドロのようになっている。ここを改善しない限り、学界の改革は不可能である。幸い今世紀に入って、本当に学問をやりたい学生は、日本の大学ではなく直接海外のハイレベルな学校を目指すようになっている。彼らの活躍が一般的になった時、ヘドロはもはや地層となって地の底深く沈んでいるであろう。

(21/07/02)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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