欲望ライフサイクル理論






大量生産・大量販売のマス・マーケティングを支える理論としては、ディーンの「商品ライフサイクル理論」マズローの「欲求五段階説」、ロジャースの「イノベーター理論」、ディーンの「商品ライフサイクル理論」の三つが良く知られており、1950年代から1960年代の高度成長期にはバイブルのように一世を風靡した。今でもちょっと古典的なマーケティングや経営の教科書には、この三つの理論はよく登場しているようだ。

これらはどれもニーズの変化、すなわち消費者の欲望の時系列的な変化によりマーケットのトレンドが変化するというミクロ的な視点をベースにしているという特徴がある。特に「商品ライフサイクル理論」と「イノベーター理論」とは、実は双子の兄弟で、マーケットにおける商品の売れ行きの時系列的な変化を、商品の側から販売量の変化で捉えたものが「商品ライフサイクル理論」、消費者の側からメインターゲットの構造的変化で捉えたものが「イノベーター理論」である。

この中では「欲求五段階説」のみが一つ違う軸を持っている。消費者の欲望の時系列的な変化の様子自体が、欲求段階に合わせて高度化してゆくという視点を内在しているのだ。高度成長期においては消費者の「欲求段階」はスタティックなもの、あるいはすでに光度に発達したものとして捉えられていたが、理論自体は生活者自身が段々とより高次の欲求を満たすことを求めるように「進化」してゆくという可能性を示唆していた。

20世紀後半の高度な経済発展と社会の急速な情報化は、それまでと異なり、一人の人間の人生の中でも欲求のステータスがレベルアップする環境をもたらした。そういう意味では日本のバブル期はその良い社会実験と言えるだろう。金で手に入るものは、基本的に何でも手に入るようになった。しかしだからといって人生が満たされるわけではない。物質的なものだけでは決して幸せになれないことを、社会レベルで知ることになったのだ。

生活レベルが上がることによって、マクロ的な欲望のあり方も変化してゆくことが、はじめて実証的に明らかにされた。高度成長期の「モーレツ消費」、バブル以降の「さとり消費」。社会の経済発展の度合いによって、マクロ的な視点から見た消費者の欲望にも輪廻がある。童貞中坊と大人の悶々度の違いのようなものだ。この変化は時系列的かつ非可逆的に捉えることができる。この欲望の遷移を「欲望ライフサイクル理論」と呼ぼう。

まだ貧しくインフラも充実していない段階では、「なかったものが手に入る」ことが夢となる。なんとしてもそれを他人より早く手に入れようとがむしゃらになることが、欲望の根源となる。日本でも高度成長期はこういう「入れ食い」状態の、超プロダクトアウトな市場だった。だから、二番煎じのパクり商品でも、多少機能が劣るB級メーカー製の粗悪品でも、タマがありさえすれば飛ぶように売れたのだ。

すでにそのジャンルの商品の普及率が一定レベルを越し、大半の消費者がすでに持っている段階になると、消費者に「買い替え」させなくては新たな商品は売れなくなる。壊れたとか、明確な要因があれば買い換えざるを得ないが、多くの場合においては、まだ今のを使った方がいいか、買い換えた方がメリットがあるかという選択をした上でないと購買には至らない。当然、消費者の行動は「買うとしても、良く考えてから買う」という、自制心の効いたプロセスになるからだ。

だから豊かで安定的な社会になり、社会的なインフラも充実してくると、何もなかった頃のような「剥き出しの欲望」は表立ってこなくなる。この決定的な転換点は日本においては1980年代であろう。バブルに向かう好景気の中で、金さえ積めばなんでも手に入るが、それでは幸せは得られないことを社会実験として実感した。そういう意味では、商品を手に入れるために剥き出しの欲望が爆発したのは、新発売ファミコンソフトの奪い合いあたりがその最後と言えるであろう。

このように一人の人間、あるいは一つの社会の発展段階が変わることで、欲望のあり方もまた変化するのである。生活レベルが低い時代の人や社会の欲望と、生活レベルが上がってからの人や社会の欲望のあり方は根本的に異なる。かつては、生活レベルの変化が極めて遅々としていたので、違う欲望レベルの人間が同じ社会に併存することはなかった。断絶の時代と呼ばれた70年代にその最初の兆候が表れたとみることができる。

こういう視点からみると、若者の保守化・右傾化というのがいかに見当外れかよくわかる。起こっている変化が志向しているのは、保守でも右翼でもない。安定化なのだ。そもそも保守・革新とか右翼・左翼とかいう貧しい産業社会の時代の対立軸自体が無意味になっている。これに気付かず、未だに前世紀の思考回路でしか物事を見られないから、こういう発想になる。もっとも、そういう旧態依然とした発想の人は、欲望の発展段階がまだ低いままということも言えるのだが。

(21/07/09)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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