社会貢献としての行政論






かつて大衆社会になる前の19世紀までは、行政というのは貴族がノブリス・オブリジェとして無償で行う、その社会的地位ゆえの社会的貢献であった。プロの行政官というのもいたが、それは貴族の判断を補佐し実務を行うための存在であり、決して行政の中心的役割を果すものではなかった。意思決定を行うのは、社会奉仕として行政の活動を行っていた貴族に限られていた。

それは身分制社会においては、責任を取れるのは有責任階級としての社会的な地位がある人間に限られていたからだ。というより、身分制社会における階級というのは、社会的な責任の有無によって区別されていた。社会的責任を取るのは貴族階級であり、庶民は社会的責任の主体ではなかった。江戸時代の日本においても、有責任階級としての武士と、責任の主体たり得ない町人とは歴然と区別されていた。

実はこの名残が、公務員のキャリアとノンキャリアの区別になって今も残っている。自ら判断し指示する代わりに、その結果については責任を取る存在としてキャリアがあり、その一方で、指示されたことを自らは価値判断することなくきちんとこなすことで、指示を正確にやり遂げることに関してのみ責任があり、その中身については責任を取る必要がない存在としてノンキャリアがある。

こういう構造であるがゆえに、本来キャリアとノンキャリアが別の系統に位置づけられているのだ。別に試験に受かったから偉いというわけではない。そういう意味では森友事件でキャリアである佐川理財局長が改ざんを指示し、ノンキャリアである赤木近畿財務局職員がその命令に従って改ざんした場合、たとえ違法・理不尽であっても命令に従わなくてはならない一方、その内容に関する責任は全て佐川理財局長が負うことになる。

このような事例で考えていけばすぐにわかると思うが、現在の官僚制におけるキャリアの位置付けや採用法がおかしいのだ。責任が取れない人間を責任あるポジションに就けてしまっている一方、本来責任を取るべき立場でない人間にその責任を押し付ける結果となっている。キャリアとノンキャリアは、採用方法の違いではない。人間の器の違いで振り分けるべきものであり、自分で肚をくくって責任を取れない人間をキャリアにしてはいけないのだ。

すなわちキャリアは、秀才エリートではいけないのだ。その適正は偏差値の問題ではなく、責任をとる気構えがあるかどうかの問題なのだ。それが今の日本においては全ての間違いの根源だ。同様の問題は、官僚化した組織を持つ大企業においても同様に見られる。ともすると無責任な秀才エリートにポジションを与えがちだ。伝統ある大企業が不祥事を起こしているのも、この「責任を取れる人がいない」という問題に行き着く。

リーダーシップを果たすには、ノブリスオブリジェとしての社会的責任を果すという意味で、無給でそのポジションをこなし、いざというときに腹をくくって個人で社会的な責任が取れる人がやらなくてはいけないのだ。昔はそういう人達を「貴族」として社会的に認めると同時に、そのような社会的責任を負うにしおうような人間となるように育てられてきた。だからこそ、無私の判断ができたのだ。

そのような社会システムがなくなった現代においては、どうやったらそのような「公正さ」を担保することができるのだろうか。幸い、現代においても「家が太い」人はいる。稼ぐために仕事をしなくても、食っていける人はいるのだ。それなら家が太い人は、義務として一定の期間、持ち出しで行政を行うようにすればいい。資産の多い人は義務として、社会貢献として行政官をしなくてはいけないようにすればいい。

そもそも意思決定をする行政官が給料をもらって仕事を行うことがおかしい。仕事として行政を行って金をもらうようなスキームになっているからこそ、金の亡者になる。だからこそ高級官僚はおいしい利権にありつける既得権益を徹底して守り、さらなる利益誘導を行うようになる。持ち出しでやっているのなら、当然汚職も発生しようがない。金のない人間が、金欲しさに行政官になるというそもそもの構造がいけないのだ。

純粋無垢は、ノブリス・オブリジェの社会奉仕からしか出てこない。ノブリス・オブリジェは、人格の高さにも繋がる。秀才エリートの中にも人格的に優れた人は例外的にいるかもしれないが、極めて少数であることは今の霞が関が何よりもよく示している。その一方で、ノブリス・オブリジェを率先して果たすということ自体が、人格の高貴さを示している。

百歩譲って、行政の現場においては「能吏」は必要である。秀才エリートは、そのためにこそ役立つ存在であり、彼等にものを考えさせたり、意思決定させたりするからおかしいことになる。士業の使い方と同じだ。責任を取れる経営者が、自分のアイディアを示し、それが合法的か、税務的に問題ないか、などの確認を取るのが士業の正しい使い方だ。自分でアイディアが出せない経営者が、どうしたらいいかと聞く相手ではない。

そう、責任を取って「使う側」の人間と、「使われる」側の人間との間には一線があって相入れない。これを守ることが大事であり、「使われる」側の人間にモノを考えさせたり、判断させたりしてはいけないのだ。キャリアは無給で家の太い人が社会的貢献の奉仕として行う。その一方、ノンキャリアには不届きなことを思いつかないぐらいの充分な給料を与えて、本来の公明正大さを順守させる。情報化が進みAI化が進む21世紀こそ、人間としての器を決める「育ち」がものをいう時代になるのだ。

(21/07/16)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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