学習力と発見力





学問の進歩とは、新たな発見の積み重ねによって引き起こされるものである。柔軟な発想と、多面的な思考ができる人だけが、このような「新たな発見」をもたらすことができる。そういう意味では、本来アカデミックな世界においては、発見力の高い人間が重視されるべきであるし、そういう人材の方が、より優秀な学者・研究者として評価されてしかるべきである。少なくとも、グローバルレベルのコンセンサスはそうであろう。

その一方で、こと日本においてはアカデミックな世界での出世は前例踏襲の積み重ねによってしか達成できないものとなってしまっているのが現実である。いかに優れた見識と発想があっても、既得権で固められた日本のアカデミックな世界では評価されない。明治以来官学主導できたこともあり、日本的な官僚組織の構造原理が、学界の「権威」を担保する原理となってしまったからだ。これにより日本の「学界」だけが、ガラパゴス的な異型の進化を遂げることになる。

元来学問においても最も重視される能力は「発見力」であった。極端な話、発見力に優れた人であれば、いろいろな理論を勉強しなくとも、過去のその学問における発見の歴史の流れを自ら独自に発見することにより追体験し、自分のものとすることは可能である。もともと「勉強」も覚えることではなく、学問の体系を追実験し、自らの体験として会得するための補助であった。しかし、日本のアカデミズムの中では、柔軟な発想や多面的な思考は学者としての出世の妨げになってしまう。

この矛盾が起こったのは、明治維新以降の文明開化における「追いつき追い越せ」の促成栽培教育の中で、学問が「丸覚えで会得してしまう」ための手段となってしまったことに由来する。この結果、日本においては「勉強のできる優秀な人材」=「学習力が高い人材」すなわち「丸覚え」でマネがウマくできる人間ということになってしまった。爾来そのまま150年、このようなスキームに疑問を差し挟むことなく教育界は進んできた。

このような教育体系では、過去に理論化されたことをその通りできたとしても、それが発見され証明されるプロセスを追体験することはできない。科学の教育においては、この「科学の発達のプロセスを追体験する」という部分が非常に重要である。それは単なる公式の丸暗記のような知識ではなく、どこから発明・発見が生まれてきたかを身をもって学ぶチャンスとなり、それが新たな発明・発見のチャンスとであった時に実を結ぶからだ。

「追いつき追い越せ」のために当面頭数が必要とされるのはある意味職人である現場の技術者である。そういう人材の養成にはそれでいいかのもしれないが、本来の意味でのアカデミックな研究者はそれでは全く育たない。学者・研究者の養成プロセスとしては通用しない。19世紀の間は西欧の先進国とのギャップがあまりにも大きく、それをいかに早く埋めてキャッチアップするかが、独立国として生き残れるか、西欧列強の餌食となってしまうかの瀬戸際であった。

もちろん、江戸時代から優秀な人材はいたわけだが、いかんせん数が少ない。そのため技術者の「促成栽培」が必要となった。これが功を奏して、20世紀の声を聞く頃にはまだまだ貧しかったものの、江戸時代からの資本蓄積もあり、ひとまず滅亡の危機は脱し、列強の最末席になんとか間に合うことができた。だが、これは急激に変化する列強を中心とする世界情勢の中で、日本が生き残るための緊急対応であった。

百年の計を考えれば、促成栽培での「勉強」ではなく、本来の「学問」をキチンと身に着けた人材も同時に養成する必要があった。制度そのものもそこにオプティマイズし過ぎたため、その後一世紀以上に渡り教育とは「勉強のできる優秀な人材」=「学習力が高い人材」=「丸覚え」でマネがウマくできる人材」を育てる場となってしまった。とはいえ、地頭のいい人材は一定数いるので、いわば自力で這い上がった天才は育ったが、それに次ぐ層をうまく育成することができなかった。

日本の大企業がダメになった理由の一つもここにある。ベンチマークする相手がいる間はまだ秀才が率いるサラリーマン集団でもなんとか成長できるが、単独で荒野の中に放っぽり出されるようなマーケットの状況になると、全く手も足も出なくなる。ベンチャーには「発見力」の高い起業家が必要だし、日本でもそれなりに立ち上がっている。しかし大企業の中には「発見力」の高い人材が極めて少なく、いたとしても適材適所で使われていないことが多い。

すでに出来上がってしまった組織やスキームは今から変えても無駄にエネルギーを食うだけで、費用対効果が極めて悪い。そうではなく、これから新しく作る組織やプロジェクトにおいては、学習力の高い知識の豊富な人間ではなく、発見力の高い創造的な人間を重視し重用することが先決だ。率先してそういう人材を、適材適所で投入する。これならば今からでもできるし、無駄なエネルギーも消費しない。新たなものを作るのだから、既存の組織の既得権益とも競合しない。

ひとまずは、これを実現することが「はじめの一歩」であろう。まずは「発見力」のある人材を優先的に必要とされる新たな組織に集める。発見力が重視されるようになったらその次のステップは、「学習力」ではなく「発見力」を伸ばすこれまた既存とは別の教育チャネルの構築である。数年でできる話ではないが、少なくとも21世紀前半を通してこのように漸進的にパラダイムシフトを実現しなくては、21世紀後半の日本に未来はなくなってしまう。ここは若い層の底力に賭けたいところである。


(21/07/30)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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