批評と好き嫌い





匿名のSNSなどでは、ことさら他人を貶めるためだけに相手の意見を否定する書き込みが非常に多い。要は負け犬の遠吠えで、匿名なのをいいことに分が悪い立場の人間が「勝ち組」を妬んで足を引っ張ろうとしているだけである。そのような時には、決まって批判というスタイルを取って、我田引水の屁理屈で相手の意見に反対することになる。こういうこともあって最近よく批評と批判を混同している人が見受けられるようになった。

批評とは、決してその対象を貶めるものではない。それどころか経営学におけるSWOT分析のように、対象となるものを第三者的視点から分析し、良いところ、ユニークなところ、問題点等々、対象の特徴を客観的に評価するプロセスである。モノゴトには、必ずいいところと至らないところ、オリジナルなところとマンネリなところがある。それを冷静な目で振り分けるのが評論である。それは特徴を描き出す作業であり、いいか悪いかの判定ではない。

たとえば、映画評論家や音楽評論家の書く批評は、その作品の見どころ・聴きどころといった優れた点がまず取り上げられることが多い。もちろん「無意味なカットが多く上映時間が長すぎる」とか「イントロが別の曲に似すぎている」とか、問題点の指摘も行われるが、それはメリット・デメリットを比較する中で出てくる話であり、作品を貶めるためにことさら問題点だけをこれ見よがしに取り上げたのでは、評論家としての見識が疑われてしまう。

問題点やデメリットの指摘においては、その部分だけ取り出せば「批判」のようだが、全体の評価の一部として取り上げられる分には、単なる批判ではなく、場合によっては次回作に対する期待を表現したものと読むこともできる。このバランス感覚が批評においては重要なのだ。単にこけおろすだけでは批評ではなく、その作者の次作に対する期待と努力目標を示せてはじめて批評たりうる。このためには、作者以上の高いセンスと見識が求められる。

一方「批判」は、基本的に好き嫌いの問題である。百人百様であるべき好き嫌いの問題に、「べき論」を持ち込もうとする人がいるから「批判」が生まれる。納豆好きと納豆嫌い、猫好きと猫嫌い。それは個人の好みの問題であって、どちらが正しいとか、どちらが優れているとか、一方的に結論付けられるものではないし、結論付けるべきではない。納豆を食おうが食うまいが、それぞれ自分の気持ちに合わせて好きなようにやればいいだけの問題だ。

しかし世の中には何でも二元論にして、どちらが正しいかを決めないと気が済まない「一神教」な人達がいる。特に人生の基本的価値観が一神教な欧米の人にはよく見られる傾向である。このような場合、もともと個人の嗜好の問題であって優劣がつけられない問題であるにもかかわらず、自分の主張だけが正しいことを「証明」したがる傾向が強い。そのためには何としても相手を否定しなくてはならない。ここで相手を貶める手段として登場するのが「批判」である。

「批判」においては、もともと差がつけられないものを、一方的に自分の価値観に基づき相手を否定するプロセスが主体となる。すなわち百人百様の好みの問題に「正しい」かどうかという本来相容れない軸を強引に持ち込み、自分の意見だけが「正しい」という結論に持ち込んで安心する。結果的に、ことさら相手の価値観のデメリットだけを取り上げて、針小棒大にあげつらうことで、相手を否定することになる。

これは議論において、内容の論議で互いの理解を深めるのではなく、人格攻撃で相手を撃破して勝とうとするやり方と同じだ。学者・インテリ・左翼といった人達は、もともと議論でも人格攻撃に走りやすい人種である。自派の論拠自体が敵対する他派の論拠と五十歩百歩の「同じ穴の狢」で、自分達のアイデンティティー自体が傍から見ればほとんど見分けがつかないような極めて脆弱な薄氷の上に載っている。

本筋の議論で論破しようとすると、下手すると自分達にブーメランが返ってきて、たちどころに一族郎党もろとも討死ということになってしまう。だからこそ「攻撃こそ最大の守備」とばかりに、本筋とは違う「人格攻撃」で相手を撃破することにより、本筋の議論には立ち入ることなく自陣を防衛したがるのだ。批判というのはこのように、そもそも性根が捻じ曲がった人達が自己防衛のために行うものである。

一見屁理屈で武装しているので、論理立っているように見えるが、そもそも最初の立脚点が一方的な自己主張なので、そこからいくら「論理的に展開」したとしても、所詮は「ゼロに何を掛けてもゼロ」の域を出ない。つまるところ、好き嫌いにしか過ぎないのだから、どっちでもいいのだ。どっちかだけが正統でそれ以外はありえないというものではない。

それなら最初から理屈っぽく正邪の問題にせず、自分が好きか嫌いかといえばいい。それをいう勇気と自分に対する自信がないから、妙な理屈で一神教の神と悪魔の二元論にしたがるだけなのだ。そういう意味では、シンプルに「好き嫌い」が言えずに理屈を捏ね回す連中は、腰抜けのチキン野郎ということである。そう考えてゆくと学者・インテリ・左翼といった連中が何をほざいても全く気にならなくなる。

どうせこいつらはコロナ騒動とオリンピック騒ぎで自滅する絶滅危惧種なんだから、放っておくのが一番いいだろう。こやつらみんなからシカトされるとそれだけで意気を失ってしまう甘えん坊だから、そうすれば絶滅時期がさらに早まるだろう。そういう20世紀の産業社会的な遺物の葬式という意味で、2020年の東京オリンピックはこれから長く語られるようになるだろう。本当の21世紀がここから始まった時として。


(21/08/06)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる