秀才のルサンチマン





官僚のような勉強ができる秀才は、筋論ばかりいうので学校ではからかいやすいイジメられっ子だったに違いない。彼らはちょっとイジってやると、必死に反論して言い訳する。そうすると、そこに次の突っ込みどころが生じる。そこを突っ込むとさらにアツくなってもっと言い訳の度が進む。このようにどんどん自分で墓穴を掘っていってくれるので、別にイジメる気がなくても、ネコジャラシで猫をもてあそぶようにからかいたくなる相手なのだ。

かつて1970年代ぐらいまでは、イジメはイジメっ子とイジメられっ子という個と個の間の行為だった。このポイントはイジメっ子もイジメられっ子も、たとえば学校のクラスの中では浮いている存在であった。どちらも「多数派」には入れない存在でそのプレゼンスの前に戦々恐々としており、実はクラスの中に居場所がなかった。互いに漫才のボケと突っ込みになるように、浮いている同士が、なんとか居場所を作ろうと思ってウケを狙う。

それを見ている「多数派」は傍観者となって面白がってくれるので、圧力はかからなくなるという構造である。しかし1980年代以降はイジメの構造が変わった。匿名の多数が圧倒的なパワーとなって同化圧力を掛けるようになってきた。これとともに浮いている子はその特性に関わらず、匿名の多数から「村八分」というイジメに合うようになった。イジメとは個人間の問題から、「匿名の多数派からの同化圧力」の問題になったのだ。

こういう時代になると、勉強ばかりしている秀才は完全に「多数派」から疎外され、戦々恐々とした日々を送る学生時代を過ごすことになる。このルサンチマンは根深いものがあり、一生続く。かくして秀才君の成れの果てである高級官僚は、「多数派」の成れの果てである一般大衆に対し根深い恨みを持つことになる。その分、官僚が権力を握ると、ここぞとばかり生まれてはじめて他人をイジメて自分がマウントを取った気になろうとする。

最近のコロナ騒動はその最たるものだ。無意味な規制や自粛要請を出しまくって、人々が困惑したり、業者の営業が立ち行かなくなるのを見て、自分の権限に酔っているかのようだ。そもそも官僚は、何かを禁止したり規制したりするのが大好きだ。自分の権限が強くなれば強くなるほど、官僚としてはおいしい。新たな許認可の対象が生まれると、それに関連して利権構造が作れる上に、業界団体等での天下りポジションの増加にも繋がるからだ。

しかし官僚の宿命として、現状何も権限のないところに対してプレゼンスを発揮することは難しい。それどころかそういう「処女地」に対する権限は他の官庁も同様に狙っていて、かつてのメディア・コンテンツ業界をめぐる通産省と郵政省とのつばぜり合いのように、官庁間のいらぬコンフリクトを生み出すことにも繋がりかねない。ということで、基本的には現状の許認可権限ある領域で、その権限を拡大する方向に画策することになる。

これは地方公務員でも変わらない習性である。そしてコロナ騒動でここぞとばかりに立ち回ったのは地方公務員の方である。最初の緊急事態宣言の時、東京都の職員が夜の新宿歌舞伎町に出没して「店狩り」をしたことなどその象徴だ。それだけではない。今回のコロナ騒動で自粛を強制された業種には共通する特徴がある。それは最終的な営業許可が知事名で出される業種が狙われたのだ。

パチンコ屋やキャバレーは風営法による営業許可がいるので、公安委員会の案件である。飲食店の営業許可は、保健所の案件である。どちらも、都道府県の管轄であり、都道府県のハンコが営業の生命線を握っていることになる。都道府県当局から「次に営業許可を出さないぞ」という無言の圧力を掛けることで、軍門に下らせ理不尽な要求でも飲ませることができる。これは、ヤクザやチンピラがガンをつけて脅す構造と全くかわらない。単なる弱いものイジメである。

官僚は学校でいじめられて育った分、自分より弱い立場の存在を見つけると、ここぞとばかりによってたかってイジメ尽くす。今回のコロナ騒動の本質はこれである。もうこんな秀才イジメられっ子のルサンチマンに付き合わされて、一方的に自粛という名の迷惑を蒙るのは終わりにすべきだ。このまま官僚に好き勝手にさせてしまうと、日本経済・日本社会は崩壊してしまう。そもそも彼らは国民や国家のことなどタテマエだけで、ホンネでは全く考えていないのだから。


(21/08/13)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる