ウケは気にするな





表現者が自分の作品を創作する上で重要なポイントの一つに、「既存の価値観に評価されようと思うな」というものがある。すでに世の中に流布している価値観の基準は、過去に創られた作品によって形成されたものである。その基準から評価されるということは、すなわちすでにある作品の二番煎じになっているということに他ならない。これでは自分ならではの作品を創り出すことは永遠にできない。

自分の作品をクリエイトするためには、その基準となる自分独自の価値観を持つ必要がある。そしてその価値観とは社会の側によって規定されるものではなく、自分で作ったモノでなくてはならない。表現者たるもの、この基準をきちんと持っていないと、自分らしい作品は作れなくなる。創作活動を行って作品を制作する時には、マスのレピュテーションはいらないといえる。評価軸としては自分が納得するかどうかだけが重要なのだ。

もちろん純粋芸術作品ではなくグラフィックデザインなどの商業作品においては金を出すクライアントが存在しており、その意向や要望を満たすことはビジネスとして成り立たせるためには重要である。だがクリエイターとしては、自分の信念や美学を曲げてもクライアントに迎合してしまうのは考えモノである。クライアントが「○○風」とパクりを要望したからといって、もろパクりの作品を作ってしまうのでは自分の存在意義の否定になる。

逆もまた真なりで、表現作品ではなく商品であっても、全く市場に迎合してしまったのでは、パクり商品・二番煎じ商品になってしまい、結局は価格競争の安売り合戦というレッドオーシャンに沈んでしまう。マーケティングにおいては、POSデータをいくら見ていても二番煎じの商品化アイディアしか出てこない。結果は結果であって、そこから何かが生まれてくるものではない。その結果をもたらした原因を読み取ってはじめて、独自の競争力のある対抗商品を生み出すことができる。

ところが日本人には、こういう「自分の価値観」を持つことが苦手な人が多い。常に「他人からどう見えているのか」を気にしてしまう。果ては自分がどうしたいのかではなく、他人にウケがいいことを目標にしてしまうこともけっこうある。よく「本番で緊張する」という人がいるが、これは客にどうウケるかを気にしすぎるがあまり起こる現象である。自分が納得するかどうかを基準にすれば、客を前に緊張するということはない。

しかし創作活動ということにおいては、これは本末転倒である。一部のアメリカ人のように自己愛が強すぎるのもどうかと思う時があるが、自分に自信がなさ過ぎては創作活動はできないのだ。海外においては日本人に対し「オリジナリティーが足りない」という評価が下されることがしばしばあるが、その原因の一つをここに求めることができるだろう。日本のメーカーはプロダクト・アウト的な体質が強いのだが、それで出てくる商品にオリジナリティーが足りないのだから相当に病巣は深い。

確かに人気やランキングも重要である。しかし人気やランキングが気になるのは、それが売上や利益とリンクするからである。すなわち「世間の評価が気になる」のは、あくまでも金儲けという視点がベースになっていることに基づく。多くの場合、金がないところから借入で事業を始めるから、常に支出した分を回収していなくては次の投資ができない自転車操業となり、少しでも早く投資分を回収したいというモチベーションが働くからだ。

ということは、最初にその事業やプロジェクトを始められる充分な資金さえ集められれば、自転車操業からは逃れられ、気になるのはその成否だけということになる。このような状態に持ち込めれば、人気投票を気にする必要はない。事業でもそうなのだから、創作活動においてはましてや最初の資金の潤沢さが重要になる。ストレートに言えば、家が太くて資金があることが、表現者に求められる第一の条件かもしれない。

売らんかなで客に媚びすぎたのでは、後世に残るような良い作品はできない。泰然として自分の作りたい作品を作ってこそ、後世に残る新しい表現手法を生み出すことができる。音楽や映画などのエンタテインメントは、創作の作品ではあるものの、けっこう大きな金が動く世界でもあるので、必要以上に人気やランキングを気にする傾向が強い。しかし、それはビジネスとしての面を持っているからであって、作られる作品の質とは全く別次元の軸である。

さて、インターネットが表現作品の主要な発表の場の一つとなって、この「世評を気にする」傾向が一段と強まっているのは気になる点だ。インターネットの問題点は、PDCAサイクルが異常なまでに速いところにある。何かを公開するとすぐにそれに対する結果が出てきてしまう。こういう構造があるので、作品を発表する前からついついウケを気にし過ぎて、観客にこびる傾向が強まってしまうようになる。

商品についてなら、それはそれなりにマーケティングデータという視点から意味があるだろう。生産においては、実績を見ながらリソース配分を変えることで無駄を最小限化し、利益を極大化することができる。売れ行きの変化の中から生活者の意識や行動がつかめれば、そこからマーケット・インで新しい商品やサービスを生み出すこともできる。一方、すでに試作品が出来上がっている商品のマーケッタビリティーを見るためのテストマーケティングは非常に意味があり積極的に行われている。

本質的な評価ではなく、実際の生産計画を立てるときの指標を得るためのものだからだ。よくあるのは、Tシャツなどアパレルでテストマーケティングにより、色ごとの生産予定数を決めるような場合である。また、味付けで辛口と甘口とどっちが売れるかというのを見切って、最終的な味付けの方向性を決定する場合もある。こういう性質を持つものだからして、まさに人気投票でいいし、そのデータが欲しいのだ。

最近「オーディション番組」が世界的に人気だ。これも素材としての才能を見るわけではなく、出来上がった商品として誰が一番ウケがいいかを判断するもの。いわばタレントという商品のテストマーケティングである。一番売れそうなタレントに絞って売り出すためのプロセスなので、これはこれでいい。ただそこから生まれてくるものはマーケティングにより作り出された商品であり、内面から湧き上がってきた作品ではない。

「作品」がヒットしてミリオンセラーになってしまうことはあるし、決して珍しいことではない。しかし、その逆で売れることを狙って作ったものが「作品」として評価されることはありえない。それがいくらヒットして大きなお金を生み出したとしても、商品として理屈から作られたものは「作品」にはならない。クリエイターたるもの、この非可逆性を常に心に念じていなくてはいけない。

商品は職人でもできる。しかし作品は表現者にしか作れない。その違いは「顧客」の有無である。自分の内面で閉じている中から湧き起こってきたものであるからこそ作品なのだ。世の中には一度も作品を作ったことがない人のほうが多い。それだけにこの違いは非常にわかりにくい。表現者の側に立つ人だけがこの違いを見切ることができるといってもいいが、そこに壁があることは間違いない。表現者であるには、自分が作っているものが商品なのか作品なのか、そこだけは見間違ってはいけないのだ。


(21/08/20)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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