社会不適合者としての左翼活動家





世の中には、持って生まれた能力や性格の問題から社会性がなく、社会生活を送るのに著しい障害がある社会不適合な人達がいる。こういう人は自分と社会とが相容れず、対立的な関係になってしまう。これはある種の病気であり、場合によっては社会的な壁を感じて鬱になり、極度に自己否定的な考え方に取り憑かれ自殺に追い込まれるような悲惨なケースもある。その反対に自分を否定するほうにベクトルが働くのではなく、自分を認めない社会を否定する方向に突き進む人もけっこう多い。

特に本人が生半可理系的でロジカルな頭脳を持っていたりすると、こういう場合なんとか自分を正当化して社会の方を否定する論理を考え出そうとする。その結果として自分が酔える「理論」が出来上がると「自分がこんな状況にあるのは社会の方が悪い」とウラミを持つようになる。その結果として「自分を認めてくれない社会を許さない」とばかりに、無差別殺人のような凶悪事件を起こすことが頻繁にみられるようになってきた。

確かに本人を負いこんだ社会の閉塞感もあることは認めるが、だからといって凶悪犯罪を犯すのは言語道断だ。そもそも多くの同様の環境にある人がキチンと誠実に生きていることを考えると、本人の思い上がりは甚だしい。いわば虚構の理論に酔いすぎてしまい、妄想の中でしか生きてゆけなくなってしまっている。まあ、現実の社会に居場所がないのだから妄想にすがろうというのもわからないではないが、周りからすれば迷惑千万である。

このような人達の中で、理論武装が過ぎてしまい完全に自分の妄想の中だけで生きるようになってしまった人は、しばしば過激な左翼の活動家になる。自分の不満を社会の問題にすり替え、それで暴力を正当化する。まさにテロリストの心の中の論理がこれである。左翼のテロリストは「天誅」気分で事件を起こしていることを考えると、社会を恨んで凶悪事件を起こす犯人も「孤独なテロリスト」といえないこともない。

私は心理学も精神医学も専門家ではないが、その応用としてのマーケティングにおける心理や精神の分析においてはプロフェッショナルなチームを率いてそれなりの実績を残してきた。その経験からいえば、社会に不満を持って連続殺人事件を起こす「殺人狂」も、自爆テロを起こすテロリストも、現実から逃避して自分の勝手な論理で築き上げた虚構の中で粋がることしかできなくなってしまった「同じ穴の狢」である。

こうやって見てゆくと、無差別殺人犯とテロリストとは、気負った勢いだけなのか、何か自分の行動を正当化する「理屈」を持っているかという違いだけで、心の中のモチベーションは全く一緒であることがよくわかる。盗んだ銃による連続殺人事件を起こした永山則夫が、獄中で読書を重ねて理論武装し、「無知の涙」以降、自分の置かれていた境遇や貧しさを前面に出した小説を発表し、左翼的な正当化を図った流れは、この関係性の象徴ともいえる。

かつてはイデオロギーが崇高なものと考えられ、イデオロギーに殉じる人達は英雄視されてきた。しかし、冷戦体制が崩壊してみると、イデオロギーというもの自体が、自分達の意見ややり方だけを正当化するための方便であったことがわかった。イデオロギーを貫くためのテロではなく、テロに正義の理由を付与するためのイデオロギーであった。イデオロギーとテロは手段と目的の関係が逆で、テロが目的、イデオロギーが手段だったのだ。

この点を踏まえれば、テロリストを認めることは、無差別殺人の凶悪犯を認めることと等しくなる。同じように、テロこそ行わないものの、テロリストが自分たちを正当化するために使っているイデオロギー的な「理屈」を信奉し、それを自らの主義主張として掲げる人達もまた、無差別殺人の凶悪犯を認めることになる。もちろん、思想信条の自由・良心の自由があるので、無差別殺人の凶悪犯を認めることも自由である。

そういう意味では、左翼やリベラルの支持者には、まず無差別殺人の凶悪犯を認めることが求められる。これならば終始一貫した考え方であり、他の人が共感するかどうかはさておき、他人に押し付けない限りにおいては自由に信奉していいだろう。無差別テロは迷惑がかかる人が多いので困りものだが、一人一殺の差し違えによる暗殺テロをやっている分には、こちらとしても「勝手にやってくれ」である。

しかし、自分達は高尚な思想に基づいているのであり、無差別殺人の凶悪犯とは違うのだという選民意識を持つならば、これは全くのダブルスタンダードで、ご都合主義的な自己正当化でしかない。そもそも社会への不満を暴力でしか発散できない時点ですでに社会不適合者なのだが、その上自分達だけは特別で違うという選民意識を持っているというのは、二重の意味で社会不適合ということになる。

これが社会的共感を持って受け入れられると感じてしまう時点で、左翼の活動家はもはや社会には居場所がないといっても過言ではないだろう。思想信条の自由は大切なので、どんな意見であっても他人にそれを押し付けたり、迷惑をかけたりしない限りは「気持ち」は尊重すべきである。とはいえ、昨今は本当に左派系政党やそれを支持する自称「リベラル」な文化人・有識者も、自分と違う意見の人間は粛清して抹殺すべきだというような暴論を吐き出している。

まあ断末魔のあがきだとは思うのだが、これではサーキュレーションが見る見る減少している新聞と同じように、自分で自分の首を絞めていることになる。個人的にはヴィジョナリストであるカール・マルクスの夢見ていたユートピアというのは、人類の一つの理想として決して間違ってはいないと思う。エンゲルスとレーニンにより政治的アジテーションの武器になってしまった社会主義思想を、本来のユートピア思想に引き戻すことこそ、地球が豊かな情報社会となった21世紀の左翼に求められていることだし、復権のカギだと思うのだが。


(21/08/27)

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