ネイティブの時代





例の「お受験殺人」以来、またぞろ教育の問題が議論されている。しかしぼくにいわせれば、いまごろ教育の問題というとらえかたをする方がおかしい。近代の終焉と共に、学校というシステム自体が制度疲労を起こしているというのに。子供たちが学校という制度自体についていけないために起きている「学校の崩壊」が、何よりこれを示している。それでもまだ学校を信じ、そこによりどころを求めるというのは、とりもなおさず、発想が20世紀から抜け出せていないことだ。しかし、そういう人達のなんと多いことか。学校なんて必要ないし、意味もない。大事なのはもともと持っている能力と、それを磨く努力。中身のない人間が、いくら勉強して努力して知識をつけたところで、能力のなさがうまるわけではない。いい学校出たって仕方がないのだ。

少なくともぼくの体験がそれを示している。余りこういうところで公然と書くことではないので、婉曲な表現はとるが、少なくとも小学校は伝統ある名門私立の付属小学校だし、中高校は東京では有名な中高一貫の男子校の受験校だし、大学は理工系の学部ではいちばん偏差値の高い国立大を出ている(具体的に校名を聞きたい向きはmailを)。お受験に明け暮れる教育ママに対してブランドで勝負するなら、多分圧勝するだろう。あくまでもその経験を踏まえていうのだが、そういう学校を出ても、学校から得られたモノは何もない。今の自分があるのは、持って生まれたモノと、自助努力の結果でしかない。学生時代の人間的成長からいえば、バンド活動等の趣味の人間関係やアルバイトの経験の方がよほど大きい。

そもそも高等教育制度は、キャリア官僚、会社の管理部門のホワイトカラーといった、歯車になる人間を育てるためのモノ。法律や前例をもとに、淡々と課題を処理するのが、彼らのタスクだ。かれらは無から有を生み出すわけではないし、そんなことは求められない。まさに、プログラムされた通り動く、コンピュータそのもの。コンピュータやネットワークという文明の利器がなかったから、彼らのような人間が必要とされただけのこと。当然情報化により居場所はなくなっているわけだ。こういう人間を育てるなら、もともと持っている才能がなくても、学校教育でなんとかなった。そういうヒトはもういらないし、学校制度ももういらない。

だからたとえていえば、学校の教育というのは、所詮それまで旧バージョンのウィンドウズが動いていたパソコンに、新バージョンのウィンドウズをインストールようなモノでしかない。もちろんインストールすると、たちまち機能アップするが、それはソフトを作った人間が決めた通りに動くだけのこと。人間がやるのは、その「新バージョンを作ること」であって、それを動かすのは機械でもできる仕事。学校教育というシステムが、こういう近代社会の課題解決に最適化したモノである以上、そういう仕事はコンピュータがやってくれる時代を迎えてしまえば、意味がなくなるというモノだ。

これからの時代は、本当の意味での教育が重要になる。そのヒトが持って生まれたいいモノを、それに気付き、どうのばしてゆくかというプロセスだ。これが行えるのは学校ではない。そのためには、育つ環境すべてを通じた「教育」が大切だ。それには家庭の果たす役割は大きい。しかしその家庭にいるのが教育ママでは、その子のいいところに気付かず、画一的な評価軸しか持ちえない。これでは、伸びるモノも伸びなくなる。立派な人間に育てたいのなら、この発想から改革しなくてはいけない。もっとも、偏差値依存の単純な発想しかできない「教育ママ」から、人間性や能力のあふれる子供が生まれるわけもないのだが。

そう考えてゆくと、子供がどう育つかは、親自体がどういう環境で育ったかによって決まるともいえる。心の余裕を持って育てれば、その子もまた心の余裕をもって接する親になる。これが何世代もくりかえされるのだ。社会構造や人材の流動性が低かった時代ならともかく、仕事や結婚相手といった人生設計を自分の意思でできるようになってから何世代もたてば、この差はますます激しくなる。余裕のあるヒトは、その余裕からくる幸せを心の遺産として子供に伝える。これが繰り返されれば、どんどん幸せの自己資本は充実する。その反対に、無理して不満が積もった人生を送った人は、その不満の解消を子供に託す。そうなると、不幸な有利子負債はどんどん積もってくる。

確かに、こういう人達が今後も今までのような給与水準の処遇がえられるかというと、それは否定的にならざるをえない。水戸黄門のテーマソングじゃないが、人生楽ありゃ苦もあるさ、というもの。いままで運がよかったんだと思って、気持ちを切り替える方がいいだろう。しかし、自分の本当にいいところ、らしいところに気がつけば、喰ってゆくことはできるはずだ。それに、そこで得られる心の余裕、豊かさまでカウントすれば、かえって幸せのネットキャッシュフローはプラスになるだろう。ここに気がついて考えを変えられるかどうかが、これからの時代を幸せに生きられるかどうかの境目になる。自分生まれたままの姿に忠実に。21世紀はネイティブに生きるしかない時代なのだ。


(99/12/10)



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