大きい政府と小さい政府
この一年以上続く「コロナ騒動」で分かったことの一つに「若者は、小さい政府を望んでいる」というものがある。少し前には若者の保守化とか言われていたが、その実態は「政府の干渉を好まない」というところにある。そもそも豊かで安定した時代に育った世代は、バラ撒いてもらおうと思っていない。なにより自分には失うと困るものがあるし、それを失うリスクの方がクリティカルで、その大切なモノを捨ててまでバラ撒きを期待しない。
自分が「持っているもの」がある分、それを大事にすることが主眼となり、持たざる者のようにとにかく「バラ撒いて欲しい」とは思わない。さらに彼等は「自己責任」という考え方が身についていて良くわかっている。バブル崩壊後に育った世代なので、好景気な世の中の追い風をバックにいい思いをしようなどということは、そもそも考えていない。「金は天下の回り物で」あぶく銭の恩恵を受けることなく、全部自分でやらざるを得ない中で育っているのだ。
だから「コロナにかかるのは政府のせい」などとは決して言わない。政府に期待しない代わりに、決して依存するようなことはしない。その分クールに行政のやることを距離を置いて見つめ手いるということもできる。気の利いた若者なら、いい学校に入っていい会社に入って楽な思いを使用などとは考えていない。自分の責任とやるべきことをよくわきまえているのだ。こういう人種が育ってきたという一点においては、日本社会が成熟してきたと言うことができるだろう。若い人ほど与党支持というのは、この結果である。
その一方で貧しい時代に生まれ育った老人は、とにかく貰えるものは何でも貰いたがる。
「オレのものはオレのもの、他人のものもオレのもの」という食うに困った戦後闇市時代の少年時に刷り込まれた価値観をいまだに引きずっているのだ。さらに、「責任はお上のもので、自分が何をやろうと責任は取らない」という江戸時代以来の庶民感覚も徹底して刷り込まれている。この世代がいまだに大きな政府を望んでいる。
彼等は「バラ撒きとお上の責任」でのほほんと「甘え・無責任」に生きることしか考えていない。元々貧しく何も失うもののなかった世代だ。貰えるものなら何でも貰おうというスケベ根性が丸出しになる。それだからこそ、この世代は詐欺商法に引っ掛かりやすい。筒井康隆氏の怪作「90年安保の全学連」ではないが、今や野党の支持者はこういう団塊世代以上の爺さん達。テレビや新聞といったマス・ジャーナリズムをありがたがるのもこの世代だ。
こう考えてゆくと、昨年来の「コロナ禍」というのは、実は感染症の問題ではないことがよくわかる。この「大きい政府志向」と「小さい政府志向」という価値観の対立なのだ。この軸は、21世紀に入ってから主要な対立軸となってきた。今やイデオロギー的な左右対立に変わって、日本においては最大の対立軸となっている。それのみならず、先進国においては元々各国毎に志向性が違うこともあり程度の差こそあれ、この傾向は共通して見られる。
全部「お上」の責任にして、自分は一切責任を取らず、自分で判断さえしない一方で、バラ撒きだけはたんまり求める「大きい政府志向」の人達。まさに「甘え・無責任」の権化であり、産業社会的なスキームが大好きである。その一方で「小さい政府志向」の人達は一切の干渉や規制のない状態で、自己責任において自由に行動をとれることに最大の価値を見出す。こちらこそ21世紀にふさわしい情報社会的なスキームである。
この問題についてはすでにこのコーナーで何度も指摘したが、21世紀に入って以降のほぼ20年間、日本の政策的対立軸というのは、この「大きい政府 vs. 小さい政府」という基準しかなくなっている。20世紀的なスキームである保守対革新、右翼対左翼という古典的な政治対立軸は、ほとんど意味をなさなくなっている。21世紀というのは、20世紀の主要な対立軸であった「冷戦構造」が崩壊して10年以上経って始まっているのだ。
ただ、リベラルなインテリ知識人やマス・ジャーナリズムにおいては、未だにこのフレームの中で物事を捉えようとしている。それは彼等がこういう古典的な政治構造に固執しており、その結果としてそれ以外の対立軸が世の中に存在しうるという可能性には全く考えが及んでいないことによる。それが全く時代遅れで見当外れなものとなっているのはいうまでもない。新聞やテレビのニュース、有識者の意見などが空回りするのはこのためだ。
この変化については、一般の生活者の方がよほど実感として理解している。選挙での票の動きに敏感な議員も、かなり気が付いていると思われる。確かに団塊世代以上、すなわち70歳以上のシニアは圧倒的に人数が多い。それだけにこの層の動きに引っ張られてしまう面もあるが、この世代にはこの先は棺桶しかない。いつかは世代が交代する。その時になって初めて変化に気付くようでは、あまりに鈍感といわざるを得ないだろう。
(21/09/03)
(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる