売れるものならAIで作れる





ぼく個人としては、実は1980年代のマイクロコンピュータ革命といわれていた時代から40年近く一貫して主張し続けてきたことだが、「コンピュータを使う人間」と「コンピュータに使われる人間」という「コンピュータと人間」の役割分担が今ほど明確になってきた時代はない。二種類の人間が存在し、この両者が決定的に違うことが、誰の目にも顕在化してきた。UberEatsのような、インタラクティブベースのヒューマンサービスが繁盛している姿を見れば、誰もがそれに気付くことだろう。

それと軌を一にして士業の世界も変わりつつある。弁護士にしても税理士にしても医師にしても、かつては勉強してたくさん知識を付けてあらゆる状況に対応できることが評価されていた。その中でも真の意味でのコンサルティングというか、正攻法の対応ではなく「抜け穴」を見つけることが上手い人はいたし、そういう人は企業と顧問契約をしてそうとうなパフォーマンスを上げていたことも確かだ。とはいえ、大多数の士業はまじめに勉強して、膨大な知識を元に「その通りやる」ことで評価されていた。

しかし、そういう「当たり前の士業」なら法体系と過去の事例をディープラーニングしたAIの方が圧倒的に強い。すでに10年前ぐらいから、ローコストで法定文章を作るオンラインサービスはあったし、もはや契約書の合法性の判断ならAIの方が正確で安くこなせる。医者もそうだ。各種検査の結果も、今や自分で判断せずともデータのみならずコンピュータで分析した結果が付いて送り返してくれる。それに判子を押すぐらいの存在になってしまった「先生」も多いだろう。

まあ、そういう業界はかつては「知識の量」が問われていたので、ネットワーク化されたコンピュータに敵わないのは、まあ必然的な道理ともいえるだろう。先程あげた事例のように、そういう士業の中でもごく一部の賢い人はビジネスをよりコンサルティングよりにシフトさせるだろうが、多くの「士」はAIシステムの営業係のような立ち位置になってしまうだろうし、それはかなり低付加価値の仕事である。残念なことに既得権益としては当面残ってしまうかもしれないが、もはや人間の仕事ではない。

一方でAIの発達により、今また職人とアーティストの違いが問われるようになってきた。かつて1980年代から90年代にかけて起こったパソコンの機能向上とともに、デザイン・印刷の世界ではDTP、音楽や映像の世界ではDTMという、パソコンをワークスペースとして作品を作るやり方が一般的になった。それまでは、たとえばデザイン・印刷関係ならば、かつてはデザイナーが創ったレイアウトにしたがって手作業で版下を創るフィニッシャーという職種があった。

印刷会社へは、フィニッシャーが手書きで作った版下と使用する写真を現物で送稿する。完成が入稿ギリギリになってしまい、バイク便で版下を送るなどということもよくあった。余談だが都心では一方通行の道とかが多いので、結果的に最短経路でバイク便より速くなったりする自転車便などいうビジネスもあった。この時代においては、デザイナーと印刷会社の間にはかなりの人手が掛けられていたし、多くの雇用がそこにあったのも間違いない。

これがDTPの時代になると、直接デジタル印刷機に入力できる版下データをデザイナーが直接パソコン上で作ることができるようになった。これによりフィニッシャーは職を失う。最初こそMOなどを使って物理的に運んでいたので「運び屋」は仕事があったが、これもインターネットの普及によりオンラインでデータを転送するようになってしまった。ついにデザイナーと印刷機は直結して結ばれ、間の仕事は霧散してしまった。

これと似たことがAIの発達により、同じような業界でもう一度起きようとしている。デジタル時代になって活躍しているクリエイターの中にも、アイディアがとめどもなく湧いてくるタイプの人と、知識や経験の積み上げで仕事をこなすタイプの人がいる。どちらのタイプも今までは一緒に仕事をしていたわけだが、AIはこの両者の間に楔を打ち込むこととなる。前者のタイプはAIがどんなに発達しても「その先」のアイディアを生み出せるので問題はない。

しかし、後者のタイプには大多数の士業と同じ運命が待っている。彼らの作品は知識と経験に基づいて作られたものである。そして知識と経験の量に関しては、AIのディープラーニングにかなう人間はいない。そしてここが大事なのだが、売れるモノ、すなわち大衆ウケるするものを作りだすのは、多くの場合独創的なアイディアより知識と経験であることが多い。それはマーケットを支える多くの大衆にとって「見たこともないもの」は近寄りがたい存在であるからだ。ここが危険なところである。

すなわちリスクの低い売れ筋を創ることに関しては、知識と経験の量がモノを言うが、これで行こうとする限りAIの学習機能には誰もかなわないのだ。名の通った大企業には、理屈のマーケティングで商品を作っている企業も多い。それでもそれなりに売れるし、ウマくコストリダクションできれば、販売力を生かしてそれなりに儲かるからだ。しかしそういう商品作りは、まさにAIが得意とするところ。言い方は悪いが、「ネタがほとんどわからないような巧妙なパクり」こそAIの神髄だ。

秀才は、クリエイティビティーはないが、パクりはウマいということを思い出して欲しい。勉強・学習とは、過去の知識経験からそれなりの答を生み出すというパクりのプロセスである。その最高峰こそ、AIのディープラーニングである。一番売れそうな線を、キッチリフォローして、最高にウケる商品を作ってくれるだろう。秀才が理屈のマーケティングで作った商品でも、そこそこ売れることはある。日本のメーカーにはそういう商品の方が多い。かくして日本のメーカーはAIの前に息の根を止められることになる。

たとえばダイソンの掃除機が売れると、みんな渦流を使った製品を出してくるのにはそういう理由がある。しかし考えてみればわかるように、それらは決して個性あるユニークな商品であるはずはなく、価格競争に巻き込まれレッドオーシャンの藻屑となる最期が待っている。レッドオーシャンの価格競争では、ギャンブラーと同じで「逃げ時」が勝負のポイントになる。しかし、サラリーマン集団で誰も責任を取らない日本メーカーはエクジット戦略が取れない。

だが諸行無常、ウケるものにはいつか飽きられる時がくる。産業社会の時代なら、レッドオーシャンでもビジネスはできたが、情報社会の時代にはブルーオーシャンを作らないとビジネスにはならない。ウケるモノより、心に響くモノ。今までに見たことも聞いたこともないような特別な気持ちになれるモノ。それが求められるようになる。人間が創り出すべき世界はここにあるし、そのフロンティアは大きい。今こそ21世紀的な「人間の価値」をキチンを理解し見分けることが何より重要なのだ。


(21/09/10)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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