無責任大国の来歴





日本の組織の問題点として、戦術には長けた人材こそ多いが、肚を据えて自らの責任で戦略を立てられるリーダーシップの取れる人材がほとんどいないことがある。COO向きの人材はいても、CEOたりうる人材はベンチャー企業などの「オーナー・ファウンダー」を除くとほとんどの企業にはいないといっていい。それはそもそも、組織人では戦術は語れても戦略を語ることはできないからだ。

兵はどこまでいっても兵であり、戦術の達人ではあるが、兵が戦略を論じ出したのでは軍隊としての統率が取れないし、戦うことすらできなくなってしまう。一方で将は戦略が語れなくてはいけない。戦術しか語れないのでは部隊の長レベルであり、全体を統率するには戦略がわかっていなくてはいけない。この両者はコンピタンスが全く違う。にもかかわらず「日本的経営」の終身雇用・年功序列においては、この二つがリニアに結ばれてしまった。だから本来「サラリーマン社長」などという存在自体、矛盾をはらんでいる。

もちろん、CEOとCOOが分離した現代経営においては、COOはあくまでも業務執行の総責任者であるため、最高位の部隊長と考えることができる。しかしCOOの責任と権限は業務の範囲であって経営ではない。そういう意味ではバブル期までの日本企業は、COOだけでCEOがいない会社だったということができる。それでも経営が成り立ったのは、舵取りが要らない右肩上がりの好景気のおかげである。

もちろん、個人的には一兵卒からスタートしても戦略的視点と組織運営に関する類まれな才能を持っていることで、将軍にまで成り上がってしまう人もいるだろう。特にマッドマックスというか戦国時代というか、自分で自分を守るためには、戦術にも戦略にも長けている人でないと生き残れないような時代では、そういう人が自然とリーダーシップを取るようになっただろう。それは、戦国時代に一国一城の主となった武将たちの来歴をみれは良くわかる。

とはいえその構造自体は、才能を持った芸人なら、お笑いスター誕生の勝ち抜きでも、吉本の養成校でも、M1グランプリでも、youtubeでも、どこでも人気者になってスターの座を勝ち取れるというのと同じである。逆にそういうマッドマックス的な環境の方が、完全に競争原理が働き、弱肉強食で強いものしか勝ち残れない世の中だから、あらゆる面で圧勝している人しか勝てないということもできるだろう。

その逆が平和な時代である。平和な時代の象徴といえば、江戸時代だ。平和な時代は、庶民なら空気に流されていても生きてゆけるし、その方がよほど楽である。かくして江戸時代の日本においては、一般人は組織人として過ごした方が楽で面倒がないということが徹底していった。それと裏腹な形で、多くの人にとって「将たる器」すなわちリーダーシップは必要ないものとされてきた。

それを後押ししたのが江戸時代という時代背景である。江戸時代は階級社会であったため、そういう責任は有責任階級の中でも一部の大名や旗本といった名門にだけ押し付けられてきた。その一方で、そのような家柄においては帝王学としてきっちりと戦略的なものの見方・考え方を子供の頃から教え込まれて育てられた。それゆえ名分を重視する少数の有責任階級と、実利を重視する多数の無責任階級の平和な共存が成り立った。

しかし明治以降、文明開化のためには、四民平等とし一般庶民の中からも、エリート官僚やエリート技術者を促成栽培し、西欧列強に「追いつき追い越す」ことが必須となった。そのためには実務教育のみが重視され、責任やリーダーシップという側面は無視された。このため、このようなリーダー教育を家の中で受けた士族出身者と、全く受けていない平民出身者とが、官庁や会社といった近代組織の中で机を並べることとなった。

19世紀においては、江戸時代に教育を受けた人々がリーダーとなっていたので、リーダーシップという面では問題はなかった。その文学的評価はさておき「坂の上の雲」的な世界である。ところが20世紀に入って日本にも大衆社会化の波が押し寄せるとともに、それらの江戸時代出身のリーダーは一線から去り、そもそも責任やリーダーシップという面での見識のない庶民出身者も学業成績次第ではトップに就くようになった。

これが日本の不幸であることは、昭和に入ってからの歯止めのないポピュリズムの波が戦争への道を突き進ませた歴史が何よりも語っている。戦争は軍部が武力で国民を脅して行ったのではなく、普通選挙実施以来、実質的に日本を引っ張っていった「輿論」が導いたものである。それを前提に、革新官僚・青年将校・労農政党という庶民から生まれた「エリート」が、庶民が熱狂的に求める戦争政策を実施に移したということである。

ある意味、リーダーなきカオスな組織はポピュリズムに陥るし、その行く末は悲劇的なハードランディングしかない。実際、このような日本的組織の無責任構造は戦後の冷戦構造の中で一層強まってきた。それが天下に顕になったのが、去年からのコロナ騒動ということができるだろう。確かに行政のミスリーディング(というより利権重視)により大きな社会的損失を受けたが、これが日本社会が変わるチャンスと成るのであれば、その損失も無意味ではあるまい。というより、無意味にしてはいけないのだ。


(21/09/17)

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