組織政党の罪





日本においては組織人というのは、リーダーたり得る資質をもたず、組織にすがって生きることしかできない「甘え・無責任」な人々の代名詞である。そして、そういう「甘え・無責任」な生き方に浸りきっている人が日本には何と多いことか。それはコロナ騒動の下で、単なる「お願い」に過ぎない「緊急事態宣言」や「まん防」にホイホイと従ってしまう人の多さが証明している。本来取るべき正しい態度は多少の忖度を加えた「面従腹背」であり、ガチで言う通りにすることではない。

リスクを取る勇気がないのか、判断する知恵がないのか、あるいはその両方なのか、自分で意思決定ができない分、組織にすがることしか生きてゆくモチベーションを持ち得ない人達が組織人となる。言われたこと、命令されたことを守ってさえいれば、のほほんと気楽に生きてゆけるし、それが理想となっている。そもそもこういうマインドを持った人達なのだから、明らかに自分で肚をくくって責任を持った行動をしようという気がないことは明らかだ。

ここで気付くのは、野党の皆さんは、基本的に労働組合だったり党組織だったり、組織票に支えられている人達だということである。つまり組織の利益代表なのだ。もちろん政治においてはロビイングは重要な要素であり、いろいろな利益代表が我田引水にバラ撒きを求めることは、その道義的な評価はさておき、納税の義務を果している者がその使われ方を監査する一環というロジックで、正当な権利として認められてきた。

そういう構造があるからこそ、いつもならバラ撒き利権に対しては厳しい評価を下しているのだが、組織の利益誘導については今回は問題にしない。今回問題にしたいのは、組織政党の本質が「『寄らば大樹の陰』で群れたい人達の代表」という点だ。彼等の行動原理の規範は、実はイデオロギーでも再分配でもなく、この「『寄らば大樹の陰』で群れたい人達の代表」というところにあることを見抜かなくてはいけない。

このように組織政党とは、つまるところある利害を持った組織が、自らの都合に適した政策や予算措置を導き出すための圧力団体なのだ。その議員は、そもそも組織の代表ではあっても、政治家ですらない。議席があることが大事なのであり、その議員が何をするかという問題ではない。党や組織の代表として、その方針に従って主張し、採決の時に都合のいい方に一票を入れればそれで全てなのだ。

このように組織政党の議員はそもそもモノを考える意志も力も求められていないし、実際に持っていないので、党の綱領を教条的にオウム返しにする紋切り型の対応しかできない。 それでも党にひとかどのリーダーがいるのならまだしも、リーダー自身がそういう員数合わせの党員が年功序列でポジションアップした存在になるともう目も当てられない。実際組織政党では、近年そういう事例が増えている。

今では野党の議員は政治的なビジョンがあるわけではなく、利益代表として分け前をよこせと主張するためだけに議席を持っている状態だ。労組の組織票に頼ることで議席を確保してきた「革新政党」などはその典型だろう。一応政見を上げてはいるものの、その実、いかにバラ撒きを引き出すかだけに奔走してきた。

昨今の野党のキーマンが目先のスタンドプレーしかできず、言葉尻を捉えた反対のための反対しかできなくなっているのはこのためだ。昨今の野党において「ブーメラン」が目立つの理由の一つがここにある。しっかりした信念があれば(かつては野党のリーダーの中にもそういう人材はいた)、論旨は一貫してブレはなく、ブーメランなど起こりうるはずがない。

それでも昭和の時代には、野党の中にもそれなりの政治的意見を持つ政治家もいたことは確かだ。しかし細川内閣で与党になって以来、野党は政権を取ることによってよりおいしいバラ撒きにありつけるという、究極の蜜の味を知ってしまった。これ以来野党の中からは自分たちの政見を持って、与党にそれを少しでも認めさせ実現するというビジョンは消え去り、とにかく政権にありつきたいという願望だけが空回りしている。

これでは百害あって一益無し。議員であるだけで税金泥棒といわれても仕方がない。いわゆる二大政党制のような複数の責任政党が政策を競い合うタイプの政党とは違い、少数意見の代表として野党というのはそれなりに意味があるものである。可能性のない政権の夢など捨てて、もう一度原点に戻って野党とはどうあるべきなのか考えていかなければ、全く持って不要な存在だと言われてしまう日も近いだろう。


(21/09/24)

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