形而上学な人達





アカデミックな世界に生きている人には、形而上的というか、まず勉強した知識から理論を構築し、その理論に当てはめて現実を捉えるというプロセスで現実に起こっている現象を認識することが多い。というより、現実をクールに見つめてそこから何かを見つけるというのではなく、すでに自分の頭の中にあるステレオタイプに現実を当てはめて、その枠組みの中での妥当性を捉えて初めて現実を理解できるといったほうがより正確かもしれない。

特に日本の学者・有識者にはこの傾向が強く見られる。このやり方の問題点は、知識すなわち過去に起こった事象のリファレンスとしてしか現実に起こっている現象を捉えられない点にある。少なくとも既知の現象が、既知の法則性に則って起こっている場合には、問題なく現実を理解することができる。その一方で「想定外」の現象は視野の外側にいってしまい、実際にそこで起きていても認識できないことになる。

21世紀に入って20世紀的な産業社会から情報社会へと、社会の構造が大きく変わった。その結果、20世紀的な産業社会では起こりえなかったいろいろな現象が、現実に起こるようになった。社会科学にしろ自然科学にしろ、現代の学問は総じて19世紀から20世紀という産業社会における経済や社会の発展と軌を一にして飛躍的に発展したという歴史的経緯がある。その知の体系が、産業社会的な事象にオプティマイズしたものとなっているのもまた、歴史的な必然といえる。

昨今のコロナ騒動で、学者や有識者が全く見当外れな提言やコメントを発表し、世の中の混乱をさらに拡大したのはこの影響が大きいといえる。まあ医学関係者の中には厚労省利権にずっぽり浸っているがゆえに、テレビに出演するとここぞとばかりに利益誘導を図る発言をした人もいるとは思うが、多くはこの日本特有の「学者バカ」をウマくマスコミが利用して、恐怖を煽って視聴率を稼ごうという思惑の犠牲になってしまったのであろう。

メジャーなマス・ジャーナリズムの人間も、もしかすると悪意というよりは時代についていけなかったかわいそうな人なのかもしれない。学者と同じように、まず理論があってそれを前提に現実を見るというような物事の捉え方をする傾向が顕著だからだ。これは冷戦期のようなイデオロギーの時代に、自らが支持する党派のプロパガンダに合わせて「ステレオタイプを前提にモノを見る」ことで、メディアを使って支持をすることをやり続けてきたため染み付いた職業病であろう。

この数年、新聞やテレビといったマスメディアではフェイクニュースの連発されているが、これもステレオタイプが時代に合わなくなったにもかかわらず、なおそれを前提にした見方しかできないので「現実がきちんと捉えられなくなった」一方、素直に現実を直視し受け止める力をそもそも持っていないためと見るべきである。悪意を持ってフェイクではなく、フェイクしかできなくなった時代に取り残された可哀想な人達なのだ。

今まで何度も主張しているように、これからの時代は自分の五感で感じ取って、そこから自分で発見することがなによりも重要になる。知識や過去の記憶といったスタティックな情報については、どうやってもAIにはかなわない。そこは機械に任せるべきなのが、情報社会の掟である。知識や勉強が意味を持ち、秀才が重用されたのはあくまでも産業革命に始まり20世紀とともに終わった産業社会のお話だ。

そういう意味では、21世紀が始まって20年が経った時点で起こったコロナ騒動は、後世の歴史家からは「20世紀的なもの、産業社会的なものにとどめを刺した人類史上のなエポック」として位置づけられるであろう。まあ、形式的な様式美に浸りきって殉死するのも一つの美学だろうから、今後も「知識」を後生大事に生きるのも思想信条の自由である。しかし、それはもはや世の中の笑いもの、ギャグの対象にしかならないということは心に刻んでおくべきだろう。


(21/10/01)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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