問題意識を持つこと





コロナ騒動でその劣化が誰の目にも明らかになり、それまでの権威を失墜した双璧がアカデミズムとジャーナリズムだろう。野党・リベラルも激しく劣化したが、元々社会的な「権威」ではなかったのでちょっと位置付けは異なる。正しく言うならば、日本においてはアカデミズムもジャーナリズムも時代から取り残されたところで「井の中の蛙」になっていたのが、ついに外堀を埋め尽くされるところまで来たということだ。

本来、学問においても、ジャーナリズムにおいても、今までになかった視点で新しい事実を「発見」することこそその極意だったはずだ。しかし20世紀の日本においては、西欧列強や先進国に対する「追い付き追い越せ」が優先されたため、この最も大切なところを見失ってしまい、単に西欧をベンチマークするだけのものとなってしまった。その結果、自己目的的に「権威」にすがるだけの守旧的な存在に成り下がってしまっていた。

その道を分けたポイントこそ、問題意識の有無にある。現実をあるがままに見つめてそこに疑問を持ち、その矛盾や問題点を追及し、謎を解き明かす。それは決して先人の作った道を鵜呑みにし踏襲することではない。このプロセスにこそ、至高の価値がある。そして学問やジャーナリズムの進歩もこの疑問から生まれる。生きた学問、生きたジャーナリズムは、「○○道」のような形式主義的美学の範疇であってはいけない。

そういう既存のエスタブリッシュされたスキームを打ち破るところにこそ、ジャーナリズムの「コトバの力」が活きてくるのではなかったのか。ひたすら権威とされるものの化けの皮を剥がし、既得権を維持しすがっておいしい汁を吸い続けるための手段であることを暴くのがジャーナリズムだったのでははかったのか。アカデミックな世界の問題については何度となく論じてきたので、こと日本においてジャーナリズムが形骸化し、マスゴミとして軽んじられる存在になってきたのかを見てゆこう。

元来ジャーナリストとは、既存のエスタブリッシュされた世界の外側に生息し、全ての社会現象をニヒルに斜に構えてクールに見つめるからこそ、既存の価値観では善とされる存在も悪とされる存在も是々非々で客観的に分析し批評できる存在であった。自分の足で立ち、自分の牙で餌にありつく、一匹狼の世界だ。だからこそ世界を敵に回しても、一人で自分の信じる道を突き進むことができる。

こう見てゆけばわかるように、ジャーナリストとは銃をペンに替えたスナイパーであり、サラリーマンの対極にある世界に生きる人間である。そうだったはずなのに、日本のジャーナリストはいつの間にか新聞社やテレビ局のサラリーマンに成り下がってしまった。それに加えて、新聞社もテレビ局もサラリーマンの中でもエリートサラリーマンの巣窟になってしまった。こういう連中が、ジャーナリスティックな視点を持てるわけがない。

エリートサラリーマンは所詮秀才である。秀才こそ、ジャーナリストたる能力の対極の存在だ。秀才は知識をすんなり受け入れてなんら疑問を持たない。だからこそ、勉強ができるし、試験の成績がいい。先人の知恵を学ぶことが至上の命題となっている以上、それは正義であり真実であり絶対的な宗教なのだ。しかしこれでは教条主義に陥るしかない。しかし、教条主義はジャーナリストに求められる第一の能力たる「客観的にモノを見て発見する目」を失明させる。

そもそもジャーナリストは「ジャーナリズム・バカ」でなくては務まらない。自分が「おかしい」「何か変だ」と感じるものについては、合理性を度外視して命懸けでとことん探求する。この常識離れした執着心こそが、ジャーナリズムの根源的エネルギーだ。こういう非合理的な行動がサラリーマンに、それもエリートサラリーマンできるわけがない。もうこの時点で日本のメディア企業に所属する人間はジャーナリストとして失格なのだ。

今でもジャーナリスティックな視点を持っている人は間違いなくいると思う。しかし、彼等は新聞社やテレビ局へ就職しようとは思わなくなって久しい。フリーのライターや、ドキュメンタリー作家などになり、インターネットメディア等で情報発信をしているなら、それなりに影響力を持っているだろう。実際そういう道を選びそれなりの実績を残している人もいる。もっとも、そのマネをしているだけの「ジャーナリストごっこ」をして、ろくでもない文章を書きなぐったり、無意味な映像をアップロードしているだけの人も多いのだが。

結局ジャーナリストとは、肩書きではなく人間力の問題なのだ。それを名刺一枚で社紋を背負えばいっぱしの記者になれると本人が思ってしまうと共に、その権威を認めてきた今までの日本社会が未熟だったということだろう。今からでも遅くはない。ちゃんとジャーナリスティックな視点を持った人はいるし、そのような人が活躍できる舞台も情報社会には充分揃っている。それを認める人達が、付和雷同せず、自分の見識・自分の判断でそれを評価するようになればいいだけ。それがある意味、情報社会の掟でもある。


(21/10/08)

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