イデオロギーと信念





イデオロギーとは政治や宗教における観念であり、自分が拠り所としている信念や主義主張を意味している。したがって自分の考え方を持ち、それに基づいて行動する時、その考え方がイデオロギーとなるのがあるべき姿だ。そのような基本的な考え方は、あくまで自分の内面においては実態として存在するが、外部からは見ることはできない哲学的な存在である。それが外部に見える化されたものがイデオロギーである。

すなわち本来であれば、まず意識的であろうとなかろうと自分の中に信念があり、それが外部に発露するときにイデオロギーとなるのである。しかし、現実の世界においては信念のない人がすがる拠り所がイデオロギーになってしまった。これは、社会主義・共産主義といった左翼的イデオロギーに関して明確である。他力本願で縋るものとしてイデオロギーがもてはやされるようになってしまった。これでは「蜘蛛の糸」。本末転倒である。

これもまた、マルクスの哲学を不満を抱えた労働者層を活動にオルグするための政治的アジテーションに変えてしまった犯人である、エンゲルスの罪である。まあ、エンゲルス自身は哲学者でも経済学者でもない政治的活動家に過ぎないので、本人は都合よく利用しただけなのだろうが、共産主義を本来のマルクスの描いたユートピアから、単なる支持者集めのバラ撒き幻想に貶めたのは、間違いなく彼の責任である。

そもそも政治思想としての共産主義の出自が、このように純粋な理想主義ではなく、支持者集めのためのご都合主義だったことが、その後の共産主義者が貧しい人々にメシを食わせることで熱狂的な支持を煽るポピュリズムに堕落してしまう元凶となった。そして20世紀に成立した共産主義政権が、本質的な支持を得られることがないまま、バラ撒くものがなくなってしまうとあっさり支持を失ってしまったことに繋がる。

哲学者カール・マルクスが主張していたことは、端的に言えば「人々が「目覚める」方が先であり、目覚めた人々であれば理想的な政治体制を構築することが可能になる」という手順である。哲学者らしく、人々が内面的な「自覚」を持ってはじめて世の中が変わるという考え方だ。これはこれで人間の本質的な真理を捉えた、極めて普遍的な見識ということができる。「他力本願」でいたのでは、いつまで経っても本質は変わらないことを見抜いている。

その一方でエンゲルス的なアジテーションは、まさに人々が「他力本願」に頼ることで権力を集中し、共産主義政権を樹立することをベースとしている。すなわち人々が本質的に「目覚め」て更なる高みに達することなく(これが本当のアウフヘーベン(止揚)だ、左翼にこれがわかっているヤツがどれだけいるというのだ)、ひとまずバラ撒きで支持を集めてポピュリズムで政権を樹立することの方が先になってしまい、それ自体が目的となってしまったのだ。

20世紀の壮大な社会実験として表れた「共産主義インターナショナル」は、この誤ったアジテーションの結果である。我々が見てきた「共産主義」「社会主義」とは、この誤ったアジテーションの産物なのだ。全ての人が目覚めることは理想であり、それができるのであれば確かにユートピアは実現できる。それは本来の人間のあるべき姿に間違いない。マルクスは何よりも哲学者でヴィジョナリストなので、人類の理想的あり方を追求した。

この考え方は、今でも決して間違っていない。しかし現実として、これをそのまま実現可能かというと、それには極めて否定的にならざるを得ない。だが「次善の策」を考えることは可能である。情報社会化した21世紀の現代だからこそ考えられる、マルクスの描いた理想像にどこまで迫れるかという答え。それはエンゲルス以降の腐った政治色を排し、もう一度現代の目から原典を読み直すことから始まることは言うまでもないだろう。


(21/10/22)

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