21世紀の「立憲君主制」





CEOの存在意義は、ひとえに利害が対立するいろいろなステークホールダーのピボットとなり、「三方一両得」な落しどころにウマく嵌めて全体最適を実現するところにある。企業として上げた利益は、顧客、従業員、株主などすべてのステークホールダーが我がモノとしたがっている。顧客は値引き原資として価格を下げることを求める。従業員は給料として分配することを求める。株主は配当を増やすことと同時にそれによるさらなる株価の上昇を期待する。

所詮、人間はワガママである。そこに金が湧いているのなら、関係者誰もが自分のものにしたがる。しかしステークホールダーが互いに牽制しあっている以上、そんな簡単に独り占めはできない。みんな自分が一番おいしい思いをしたがっているからこそ、誰かに傾斜配分するわけにはいかない。それぞれのステークホールダーにバランスのとれた配分をした上で、みんなにそれぞれ納得させる「大岡裁き」が求められる。

このためには、誰かが対立する利害を上手く調整して吸収しなくてはならない。まさにリーダーシップとして、どのステークホールダーからも、「三方一両得だ」と思わせる手腕が求められている。これがCEOの手腕であり、その存在意義の極致である。外部の対立する利益代表の関係性を丸く落とし込む。こここそ、社長・COOのリーダーシップが気心の知れた社内に対するものであったのと大きく違うところだ。

対立構造を一人のリーダーがウマく纏め上げるという意味では、立憲君主制という国家制度がある。立憲君主国という政治システムは19世紀の西欧においてはもっとも一般的なシステムであった。19世紀のヨーロッパにおける対立構造としては、貴族階級・ブルジョワ階級という有産階級と、労農階級という無産階級の間での「階級対立」が最も典型的なものである。またハプスブルグ帝国のように、民族間対立という別の対立構造も絡んでいた国もある。

産業革命以降の経済の成長により、中世のような農奴的な生活を脱し、労働者や農民層にもそれなりに富の分け前が回ってくるようになり、大衆層が形成されはじめた。しかしまだまだ生産力が充分でなかったため、それらの庶民にバラ撒ける富はまだ少なかったため、おいしい分け前の味を知ってしまった大衆が、「もっとよこせ」と一揆のような暴力的手段に訴えることも多くなったことが、階級対立の原因である。このような対立を社会的に吸収する仕組こそ、立憲君主制であった。

立憲君主制のバックグラウンドとしては、富の配分に応じて「有責任階級」と「無責任階級」を分け、富の配分をより多く受ける層にはそれに応じて責任や権限を与えようという考え方がある。19世紀までの社会においては、それは生まれによって決まるものであった。その分、「有責任階級」に生まれた者は幼いころから帝王学を学ぶとともに周囲にいる先輩の行動様式を目の当たりにすることで、リーダーたるものがどのようにして決断し責任を取るのかを、身をもって会得していた。

しかし本人の努力ではなく、育ちや家系によって「有責任階級」と「無責任階級」が決まることは今も歴然としている。「自立・自己責任」の精神は、教育で何とかなるものではない。これはミームであり、どういう環境で育ってきたかにより規定される人格形成の中で育成されるものだ。無責任なサラリーマン、役人の家庭。常に責任を背負っている個人事業主、中小企業経営者の家庭。子供は親の背中を見て育つというが、その責任のとり方は全く違うのを子供も見て育っている。

企業経営者は、肚をくくって自ら決断し、自分が全責任を負って舵取りをしなくてはならない。そのためには、子供の頃からそういう意識と行動をとる生活をしてくる中から会得する必要がある。リーダーシップは知識や勉強とは違う領域なのだ。しかし、日本的経営の年功制と派閥主義は、「甘え・無責任」集団の親分をそのまま社長にしてしまっていた。それがいわゆる「サラリーマン社長」である。秀才エリートかもしれないが、自ら責任を取って行動するという意識は微塵もない。

21世紀に入ってから、かつての大企業での不祥事が続出しているが、無責任なサラリーマン社長こそ企業の不祥事を起こす元凶である。それだけでなく、今までのやり方が通じなくなっても、リーダーシップを発揮して企業体質の改革を推進する力も意欲もないので、業界構造の変化とともにジリ貧になって没落してしまう。これを見ても、かつての右肩上がりの時代とは異なり、サラリーマン上がりでは経営者として通用しない時代になっていることがよくわかる。

すでに21世紀に入ってからこの20年ぐらい、政治の対立軸はイデオロギーから「大きい政府(バラ撒き)か小さい政府(自由主義)か」に変わっている。私はこの20年一貫してこの対立軸を問題視してきた。これは即、「甘え・無責任」でものほほんと生きて行ける社会か、「自立・自己責任」の人間にこそ大きなチャンスが与えられる社会かという選択である。 それはすなわち、20世紀の産業社会に重用されてきた「組織人」か、21世紀的な情報社会にこそ活躍の場が広がる「自営人」かという選択でもある。

実は「甘え・無責任」で、大組織の中に紛れてしか生きてゆけない「組織人」と、「自立・自己責任」で、自分の足で立ち前進できる「自営人」という、新たな階級対立がここに生まれている。この対立をうまく収め、社会の中で両立するようにする知恵こそ、ピボットとして対立する利害を収められる立憲君主制のエッセンスである。そしてCEOがそうであったことが示しているように、そういう役割を果たせる人は「自営人」の側にしかいない。


(21/10/29)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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