21世紀の政治対立





去る10月30日に行われた衆議院議員選挙は、日本の政治の歴史を語る上で大きなメルクマールとなるに違いない。この30年余りに渡って続いてきた政治におけるパラダイムシフトに、政党やマスコミが全く付いてゆけなくなったことに対し、有権者が明確にNoを突きつけ、変化が非可逆なモノであることを見せ付けたからだ。それは20世紀において対立の主流だったイデオロギーに代わり、「大きい政府か、小さい政府か」こそがこれからの政治の軸となることを天下に示した。

冷戦体制の崩壊以降、20世紀を代表する全体主義であるコミュニズムとファシズムを客観的に捉える研究が進み、21世紀に入るとグローバルな先進的学説としては、左翼と右翼とは拠り所とする精神的支柱が「マルクス・エンゲルス・レーニン主義の理論」なのか「伝統や宗教といった権威」なのかというところだけが違い、求めている政治体制や権力構造は極めて共通しているという捉え方が広まってきた。だからこそ、どちらも「独裁と全体主義」を志向し、バラ撒きでポピュリズムを煽って政権を奪取した。

もちろん思想信条の自由があるので、全体主義や独裁権力を求めても、違う意見を持つ者を抹殺するといった暴力的なテロに走らない限りは個人の問題である。しかし、極左・極右になればなるほど、結果的に同じ穴の狢である。共産主義のテロリストも、宗教原理主義のテロリストも、一般の民主的な生活者から見ればテロリストで違いはない。いかに「理論武装」したところで、その本質はすでに見通されてしまっているのだ。

「左派・右派」「革新・保守」「社会主義・自由主義」といった、もはや朽ち果てた対立軸を21世紀の今まで信じ切り、後生大事に守ってきた人達の方が時代錯誤的だったのだ。今ではそれらの死語になったお題目にかわり、「甘え・無責任」か「自立・自己責任」か、「バラ撒き」か「減税」か、「既得権擁護」か「規制緩和」か、という対立が、もっとも大きくかつ世界の中での国のあり方を決定付けるファクターとなっている。

企業家精神に富んだ人や才能に溢れる人は、間違いなく小さな政府を求める。その一方でやる気のない「寄らば大樹の陰」な人達は、間違いなく大きな政府を求める。これが鉄板の支持層である。当然後者の方が前者より圧倒的に人数が多いのは言うまでもない。しかし景気が良くなると自由なチャンスを求め、景気が悪くなるとバラ撒きが恋しくなる「景気の波によって立ち位置が変わる中間層」が数的には最も多くキャスティングボートを握ることになる。

したがって、この構図がストレートに反映される「政党」ができたなら、政党制議会民主主義の枠組みの中で民意を反映する形で、大きい政府を求める政策と小さい政府を求める政策がせめぎあうことは可能である。ましてやこれは全体主義ではなく、民主主義的な政策の方向性なので、バラ撒きによる景気刺激策を取るのか、政策的減税や寄附行為の推進による景気刺激策を取るのかといった戦術レベルの違いとしても違いを出しやすく、効果も出しやすい。

高級官僚が大きな政府の支持者であるのはいうまでもない。大きな政府であるからこそ、たくさんの官僚を抱えられるし、大量のバラ撒きを行うからこそ、自分達の許認可利権も天下りの椅子も大量生産できるからだ。ここに気付いて政治家・官僚・既得権益者の三方一両得というバラ撒き利権体制を確立したのが、流石、金権で名高い田中角栄元首相である。まさに田中派こそ大きな政府の権化であり、官僚出身議員も多く田中派に属していたという事実もそれを証明している。

小沢一郎氏をはじめ田中派出身者が自民党を離党して新生党を結党し、1993年の細川内閣で政権交代を実現した裏には、田中派の持つ「大きな政府・バラ撒き体質(それは社会主義的といってもいい)」と、非共産党の革新系野党の「大きな政府・バラ撒き体質」が見事に共鳴しあったことを上げることができるだろう。ある意味ここが日本で「大きな政府 vs.小さな政府」という対立構造がはじめて明確になった瞬間ということができる。

このような構造を捉えることで初めて、その後の自民党の小泉内閣が小さな政府志向を取ったのかを理解することができる。そしてその後大きな政府志向の強い民主党政権が成立・崩壊した後、あまり明確な政治的リーダーシップを取らない(パフォーマンスはするが)安倍首相の下で守旧派の復権があり、自民党が大きな政府志向も取り込むことで安定政権を築くことができたのかを理解することができる。

財務省はコトあるごとに「財政の健全化」「緊縮財政」と主張するので一見小さい政府を目標としているように見えるかもしれない。しかし彼等の主張の意味するところはあくまでも税収の均衡であって、財政の構造改革ではない。その証拠に彼等のメッセージの中には「官僚機構のスリム化・人員削減によるコストカット」という発想は一切出てこない。つまり大量の官僚を抱えた大きな政府機構の改革を行うことなく、外部支出を減らすことだけで財政の黒字化を目指しているのである。

ある意味、公共のために使う税金を極力減らし、税金の中に占める自分達の天下り利権のためのシェアを極限まで高めようというのが、財務省の主張する「健全財政」なのである。景気がどう変化し税収がどう変化しようと、自分達官僚の利権はきっちりと守れる政府機構にしようというのが、その戦略の主眼である。いわば「ユルユルの大きな政府」から「鋼鉄の大きな政府」にパワーアップしようという考え方だ。そこには国益も国の未来も何も考慮されていない。これでは「国敗れて霞ヶ関あり」になってしまうではないか。

そういう意味では「小さな政府」派が政権を占めれば、本当の意味での行政改革に手を付けることも可能になる。行政改革とは、民間でやれることは民間で行い、官が関わる領域を最小限にすることである。まさに小さな政府の実現であり、自助努力による社会づくりの始まりである。決して官業を民営化することではない。郵政事業を見てもわかるように、官業の悪癖は株式会社化して根絶されるものではないからだ。

一方大きな政府を求める声も、思想信条の自由からすればあってもいい。但し、高福祉社会とか、社会正義の実現とか、しかつめらしい理由をつけて正当化するのだけは御免だ。俺達は「甘え・無責任」な社会が欲しい、「もっとバラ撒いてくれ」とストレートに主張すればいいのだ。そういうクラスタがあってもいいし、それなりに主張としてはあると思う。変なイデオロギーの衣を借りなければ、既得権益にしがみつく保守の守旧派と社会主義・共産主義の革新派とは、全く利害が一致するのだ。

ということで、少数だがキッチリした主張を持つ「小さな政府派」、数は多いが主体性のない「大きな政府派」、そして数的には最も多くなる「中間派」にわかれれば、中間派がどちらに付くかで大きく政策が変わることになる。そうであれば、きちんとした政策論争を行って、個々の政治課題について中間派をどちらに付けるかということが政治の大きなテーマとなる。こうなればこそ、政界に人材も集まるというもの。そういう意味では、今はまさに21世紀型の社会に転換するいいチャンスということができるだろう。


(21/11/19)

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