獅子身中の敵





本来事業とは、一人の人間が全てのリスクと責任を背負って自分の判断で行うがゆえに、そこから得られた利益を自らのものにできる。しかし、一人の人間が自分だけで実行できることには限りがあるため、事業の内容よっては、複数の人間が組織としてこれにあたる必要があるものも多い。このため、組織内では自らリスクと責任を背負って判断を行う人間と、その指示に従って作業を行う人間と役割が別れることになる。

ここで問題となるのは、時として事業に対する責任と資金を調達に対する責任の所在が分離してしまう点だ。ベンチャーのように創業オーナーが自分で資金を調達するビジネスモデルなら、全てのリスクをファウンダーCEOが背負うので、自分で決めて自分でリスクを取ることができ、なんら問題はない。中小企業などでは、ほとんどの決定事項は社長決済で最終的に社長が決断し責任を負うスタイルになっているところも多いので比較的問題は起こりにくい。

ほとんどの大企業がそうであるように、社員数の多い大きな組織の会社では、組織構造上事業の責任を負う人間とファイナンスの責任を負う人間が全く別の指揮命令系統になっているところは多い。最終的にはCOOが両方のラインに対し最終判断を行い、その全責任を負うようなガバナンスをとっている組織ならいいのだが、COOは営業・マーケティング・製造といった現場部門の責任者に過ぎず、財務・経理部門の責任者がCFOで別になっており、その上はもうCEOしかいないという組織も多い。

こういう組織内で何かをはじめようとすると、ここから問題が発生する。機能を分けて別の人間や部署が担当することで相互チェックが働き、コンプライアンス・ガバナンス上のメリットがあると考えてそうなっているのだろうが、こと会社としてのパフォーマンスを考えると。意思決定上多大なるデメリットがある。社員全員に共通した意識があり統一された方向性がある社風なら全体最適も可能だが、こと日本企業においてはその部門の利害や目的にあった判断や意思決定をすることの方が多い。

このため各部門ごとの部分最適の意思決定しかできず、その結論が180゜矛盾するものとなることも起こりがちになる、たとえばいかにいいアイディアであっても、ファイナンスに責任を持つ人間がOKを出さなくては、組織としてその企画はGOにならないのだ。そして、ファイナンスに責任を持つ人間は企画内容を判断することができないので、単純に資金のリスクという視点からだけで可否の判断を出す。リスクという視点からは、斬新でいいアイディアはOKとならず、守旧的で枯れたアイディアの方が評価が高くなる。

そういう意思決定でも何とか企業経営ができたのは、ひとえに右肩上がりの高度成長のおかげである。当たり前のことを当たり前にやっているだけで、景気の風に乗ってオーガニックグロースが得られる。経営者は何も判断せず座っているだけの「お猿の電車の運転手」でよかったのだ。そして、意思決定をしないのが経営ということになってしまった。これとともに責任を曖昧にする「共同責任による無責任化」も進むことになる。

日本の官僚組織がそうであるように、日本の組織文化は「責任を曖昧にする」ところに特徴がある。稟議書のハンコの多さに示されるように、トップの長まで含めて一体誰が責任者なのか曖昧にし、誰も責任をとらないという「共同責任」にして手打ちというのが、日本的組織の特徴である。日本の大企業で会議が多いのは、みんなこの「共同責任による無責任化」のプロセスのせいである。

無責任な管理職は、自分だけの責任にはならないことを確認しなくては、誰一人OKを出さない。稟議で沢山ハンコを押し、会議に関係者が皆出席することで、全員の共同責任、すなわち責任を取らせられる人は誰もいない状態を作りだすのだ。この場合の判断基準は企画内容のいい悪いではなく、問題が起きたときの責任が自分に押し付けられてしまうかどうかである。この保障がとれなくては、プロジェクトが動き出さない。かくして会議と稟議を繰り返すたびに、当初の企画から段々エッジは鈍り、つまらない当たり前のモノになってしまう。

日本のメーカーが21世紀に入って勢いを失った最大の理由は、この「共同責任による無責任化」という、日本の組織とその中心となっている秀才エリートの持つ宿痾である。その結果として全員が組織内のことしか考えておらず、企業であっても顧客やマーケットのことをまったく考えない「超プロダクトアウト」が日本メーカーの特徴となった。こういう無責任な組織人からなる組織では、真の意味でのマーケティングを実践することはできない。それこそが日本メーカーの弱点となったのだ。

ここにブレークスルーを創り出す方策は、権限委譲と責任の明確化しかない。プロジェクト・リーダーは、与えられた予算の範囲においては自分の責任で自由に計画を推進することができる。しかし、目標を達成できなかった時の全責任はプロジェクト・リーダー一人が負うようにする。しかしこれは日本の企業文化・組織文化の基本とも言える「甘え・無責任」とは真っ向から対立する。そういう意味でも、産業社会時代のレガシーは捨て、全く新しい組織文化を持つ企業が生まれなくてはいけない時が来ているのだ。


(21/11/26)

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