ヤケクソの左翼





SEALDsの頃から変質というか質的な低下は感じていたが、この3年間で左翼・「リベラル」周辺の劣化はどうにも隠しようがない状態にまで進んでしまった。その中でも特に問題を起こしているはツイフェミともえせフェミとも呼ばれるような、言論テロとでも言いたい行為をSNS上で行う人々だ。本来のフェミニズムは価値観の多様性と相性がいいはずである。既存のマジョリティーの価値観と異なるマイノリティーの価値観にも存在を認め、共存を図っていくことを目指すのが1970年代に起こったフェミニズムだったはずだ。

価値観の多様性の重視・共存は、本来のリベラルの主張でもある。相手の価値観も尊重する代わりに、自分達の価値観も尊重してもらう。この互敬の精神こそ、価値観の多様性には欠かせない。そういう社会を目指していたのが、本来のフェミニズムでありリベラルだった。それが、自分達と異なる価値観を持つ人々の意見を、自分達と違うというだけの理由で否定し、存在すら許さないようになってしまった。

自分達の意見を主張するだけなら、相手の意見に耳を傾けなくても、ウマく棲み分ければまあ共存はできるだろう。しかしそれだけでは溜飲が下がらないのか、自分達と違う意見の人達に暴力の実力行使をするようになった。その一方で気に喰わない企業やメディアに対しては、言論テロを行って業務を妨害し萎縮させる。これは暴力団が同和の名をかたって企業などを脅す「えせ同和」と同じ手口だ。あらゆる手を使って言論を封じ、自分達と意見の違う存在を抹殺することを主張するようになった。

もともと左翼や共産主義者は全体主義的で、自分と異なる意見の存在を許さないことは、20世紀の社会主義国・共産主義国の歴史が証明している。そういう政体の国では、どの国においても程度の差こそあれ、政敵の暗殺から、政治犯の大量粛清まで、自分と意見の違う人間をこの世から抹殺してきた歴史が歴然とある。それでも一部の過激派テロリストを除けば、公然政党として政治活動を行っている組織は、一応民主主義を尊重し多様な議論を許すというポーズは見せてきた。

それが、公然と自分達の意見だけが正しく、それと違う考え方や主張を否定する、あるいは社会から抹殺すべきだと主張するようになってきたのだ。これはある種断末魔であることの表れといえる。戦争の犠牲者は、戦力が拮抗している時には比較的少なく、戦況が動いて優劣が決まってから極端に増加する。これは勝ち組が掃討作戦を開始すると共に、負け組は自暴自棄になって特攻作戦や自爆テロもいとわなくなるからである。

かくして左翼・「リベラル」な人達は、「死なばもろとも」とばかりに無謀な自爆テロを仕掛け、一人一殺で自分の社会的信用も失う代わり、「敵」を一人でも同じように社会的に葬ってしまうことで溜飲を下げるようになる。左翼・「リベラル」も自分達にはもう分がないことが直感的に見えてきたので、よそ行きの顔をしている余裕がなくなり、自爆テロ的な「最終戦争」を仕掛けてきていると見ることができるだろう。

いつも引き合いに出す筒井康隆氏の怪作「90年安保の全学連」ではないが、自分達が賞味期限切れになり、誰からも支持されなくなっていることを全く気付かないままやり続けてきた人達である。そのまま絶滅危惧種の天然記念物として動物園で保護されるというのもいいが、ここまできてふとその事実に気付いてしまったが、それでもなおそれを受け入れたくない(あるいは受け入れる能力がない)からこそ、「志に殉じる」道を選ぶということなのだろう。

この文脈で考えると、野党の「アベガー」攻勢も全く同じ構図であった。断末魔の特攻攻撃である。ただプレゼンスが違いすぎて、「象を刺しにいった蚊」にしかならなかったというだけで、もっとツイフェミやえせフェミのように、自分より弱く確実に「心中」を図れる相手を見つけて攻撃していればそれなりの効果もあったかもしれない(ただ自分達の社会的信用とひきかえなので、次の選挙が気になって仕方がない議員さんたちにはとてもできないだろうが)。

もしかすると「左翼の靖国神社」というか、「志に殉じた」人達を祀る場を作る必要があるかもしれない。という以上に、ある意味左翼・「リベラル」の活動家の皆さんは志に純粋な方なので、太平洋戦争中なら率先して特攻を志願したかもしれない。確かにシベリアに抑留された日本兵でも、そういう純粋な人ほど洗脳されて真っ赤っ赤になって帰ってきたという歴史的事実があるので、実は「蹄鉄理論」のように全体主義に染まりやすい熱血漢は両極を一瞬で移動するのだ。

ここで重要なのは、今断末魔を迎えているのは、コミンテルンのようなエンゲルスやレーニン以来の産業社会における左翼政権的政治勢力であるということだ。最近いつも主張しているように、ヴィジョナリストとしてのマルクスが主張した、人類の究極的な社会のあり方としての社会主義理念ではない。情報社会においては情報社会的なユートピアのあり方が考えられるし、そこにいたる道も産業社会の時代とは全く別のものである。

全体主義と画一主義をもとにしたみんな貧しい結果の平等を目指す社会ではなく、能力に応じて働き、成果に応じて受け取ることのできる豊かな機会の平等を実現する本当の意味でのユートピアを実現する、新しい左翼の登場が求められている。これこそ真の意味でのリベラルでもあり、価値観の多様性という意味での本来のフェミニズムも担保できる。その姿が現実に現れた時こそ、旧来の左翼は決定的に息の根を止められる日となる。


(21/12/03)

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