猿でもできる





インタラクティブがサブカルだった時代は、その創世記にほんの10年程度だがあった。それだけに、業界周辺でもまだその頃のノリのままで誤解している人が多い。しかし、インタラクティブこそメジャーでマスになった今となっては、構造は全く変化してしまった。この大衆化によりもっとも矛盾が大きくなったのが、インタラクティブメディアにおいては「機会の平等」が徹底しているところである。

アップロードは猿でもできる。これは比喩ではない。霊長類の研究者によると、チンパンジーなどは幼児程度の知力があると言われているので、動画を撮ってYoutubeにアップロードするぐらいは教えれば充分できるであろう。猫がアイコンを肉球で押してアプリを起ち上げる姿は、けっこう「猫動画」でみることができる。インターネットへのアクセスとは、そのぐらいのものである。

物理的にアップロードしただけで、コンテンツを作れたという気になってしまう人が結構いる。「そこにアップロードできること」と、「そこに存在感と居場所がある」ことは全く次元が異なる。コンテンツたり得るためには、そこにあるコミュニティーの中で一定の評価を受けることが前提となる。ところが1980年代のパソコン通信の頃からそうだったのだが、この質的区別ができない「猿並み」の人が結構多い。

視聴者参加・読者投稿型のコンテンツは、昭和の時代から隆盛だった。カムコーダーができるとともに、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の「おもしろビデオコーナー」が生まれ人気を博したように、素人の「おバカ映像」はその時代からウケていたのだ。この場合、番組コンテンツとする過程で、箸にも棒にも引っかからないような「愚作」はボツにされているので、オンエアされる「作品」は密度が濃くなり、さらにエンタテインメントとして洗練されてくる。

ところがインタラクティブメディアにおいては、「自薦」でいくらでもアップロードできてしまう。この結果、直接ユーチューブなどを検索すると「駄作」「愚作」ばかりが津波のように溢れて襲ってくることになる。見れども見れどもどうしようもないスカなコンテンツばかり。中には内容的に明らかにウソや間違いといえるものも多い。実は素人を対象とするコンテストやオーディションにおいては、20世紀の昔からこのような状況が繰り返されていた。

だから審査する方は大変である。論文募集など9割方はどうしようもないものだ。それを審査員の先生に読んでもらうなどという無駄な時間をかけるわけにはいかないので、事前にスタッフが手分けして読んでフィルタリングを行い、あるレベル以上のものを選りすぐって審査員の方々に渡すのが普通である。というよりあるレベル以上の質がある作品は少数なので、それを選び出す作業といってもいい。しかしこれが途方もなく苦痛で手間がかかる作業なのだ。

そういう玉石混交、それも「石」が99%以上を占めるような情報の土石流の中で、キラリと光って人気を集める「玉」コンテンツは、ある程度事前に選りすぐられたコンテンツだけが送り届けられていた旧来のマスメディアにおける人気コンテンツよりも、さらにインパクトが強いものだと言えないこともない。そういう意味では、インタラクティブな環境は「一回戦」で混戦の中から一気に優勝が決まってしまうような構造ということができるだろう。

インタラクティブメディアからは、今までになかったようなスピードで人気スターが生まれてくるというのは事実である。しかし、インタラクティブメディアにアップロードすれば、だれでも人気スターになるチャンスがあるわけではない。旧来のマスメディア以上に、天性の才能が輝いている人でないとスターにならない熾烈な環境なのだ。インタラクティブでスターになれた人は、劇場でも映画館でもテレビでもどこでもスターになれる。しかしその逆は難しいのだ。


(21/12/17)

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