新・階級論





かつては福沢諭吉の名言のように「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」といわれ、それが時代を推進する原動力となった。だがしかし、それは産業社会の時代の理である。産業社会においては、働きを測る基本が時間計算であったことからもわかるように、人間の価値基準は肉体的な労働力にあった。体力基準で行く限りは、障碍のようなハンディキャップがない限り、多少の差はあれども基本的に一人は一人分となり、極めて平等な構造が成り立った。

21世紀は情報社会である。情報社会は産業社会とは違い、物理的な生産とそれを支える肉体的な労働が価値を生み出す社会ではない。物理的な生産活動の多くと、それを効率よく進めていくための管理が、人間ではなくコンピュータシステムによって行われるのが情報社会の特徴である。人間の活躍する場は、産業社会のような生産現場ではなくなる。そういう領域は、情報社会ではコンピュータの牙城となる。情報社会において人間が活躍するのはそれ以外の領域となるのだ。

われわれのような元祖マイコン世代は、すでに1980年代からコンピュータは「コンピュータを使う人と、コンピュータに使われる人」とをより分ける踏み絵になると主張してきた。それ以前の大型コンピュータの時代とは違い、マイコン革命といわれたように、個人で使える「パーソナルコンピュータ」という概念が出現し、TK-80・Apple][、PC-8001と目の前にそれを感じさせるハードウェアがわれわれの手に入る形で登場してきた。

まさに、新しい時代が始まることを実感した瞬間だ。しかし、それから半世紀が過ぎた今。その当時のパソコンをはるかに上回る、その時代の金融機関の超大型ホストコンピュータをも凌ぐパフォーマンスを持つCPUを備えた「スマホ」を、誰もが持っている時代となった。個人一人一人が充分なパワーを持つコンピュータを必需品として使う姿は、当時のマイコンマニアからも想像されていたが、これほどの大容量の無線パケットが普及するところはまさに想定外である。

当時予想できたのは、有線のTCP/IPで結ばれた全ての個人を結ぶコンピュータネットワークである。C&Cとかコンピュニケーションとか呼ばれていたのも懐かしい。とにかく当時想像した以上の情報環境が実現し、コンピュータネットワークはもはや「ベタなインフラ」となってしまった。使っている人の生活や生活時間はそれほど変わらない(多くの大衆にとっては、インターネットとは無料の暇潰しの道具である)ものの、世の中は確実に情報社会へと移行した。

そして情報社会にはコンピュータと人間という役割分担がある以上、社会構造は新しい形での階級社会にならざるを得ない。そこには「コンピュータを使う人」と「コンピュータに使われる人」という二つの階級がある。実はこの間に人間ではないが「コンピュータシステム」という階級的存在があり、それがこの二つの階級を決然と分け隔てている。これは家で犬を飼っていると、家の中のヒエラルキーがおのずと明示的になってしまうのと似ている。

家に飼い犬がいると、犬はヒエラルキーで相手を捉えるので、家族を「自分より上の存在」と「自分より下の存在」に分けて捉えている。上の存在の人の命令は良く守り大変良くなつくが、下の存在の人のいうことは全く聞かないばかりか存在自体を無視してかかる。お母さんと娘がお父さんをバカにしていると、犬がその構造を理解して、お母さんと娘の命令はきちんとこなすが、お父さんは全く相手にもしなくなるという事例は良く聞く。

さてこの情報社会での階級構造では、ある人がこのどちらの階級になるかは、その個人が持っている才能の違いによる。従って、資産や権利の継承のため世襲とかそういう構造があったかつての階級社会とは違い、その個人が能力に従って後天的にどっちの階級に分類されるかだけである。「使われる人」の子供が「使う人」になることも頻繁に起こる。また兄は「使われる人」であるのに対し妹は「使う人」ということも充分起こりうる。

まあ才能には多分に遺伝的要素があるので、「使う人」が多く輩出される家系というのはあるだろうが、内容的には全く個人の問題であり、家系の問題ではない。とはいえここで重要なのは、これが階級であり、途中から移行できるものではない点だ。情報社会においては、自分が「使う人」なのか「使われる人」なのかという違いを受け入れた上で、自分がどちらの階級なのか納得づくで行動することが求められている。

階級が違うことによる利益・不利益は基本的にはない。それぞれ階級において人間としての生きがいや充実感はあるはずである。それは階級社会であった19世紀の英国をみればよくわかるであろう。もちろん結果としての「身入り」は変わってくるかもしれないが、そもそもかつてのような生まれや家柄で固定された階級ではない以上、少なくとも入り口においては機会の平等は保たれているのは間違いない。プロ・アスリートになれるかなれないかのようなものである。

このような社会で生きてゆくために大切なことは、高望みをせずに現状を受け入れ「分をわきまえる」ことだ。努力しようが勉強しようが、この階級差はいかんともしがたい壁である。それならば、それを受け入れそれを前提にした楽しい人生を送ることを考えるべきだ。産業社会的な「青天井・右肩上がり」の社会は20世紀とともに過去のモノになった。いつまでもそこにしがみつくのではなく、現状を受け入れた上で前向きに生きようではないか。


(21/12/24)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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