桃太郎と犬・猿・雉





人は平等ではない。それは決して差別ではない。適材適所という言葉がある。チームプレイにおいては、それが高度になればなるほど、求められるコンピタンスを持った人材をそれが求められるポジションに嵌めてゆく最適化が欠かせない。大谷選手の「二刀流」がアメリカの大リーグファンに驚きを持って受け入れられたのも、ピッチャーとバッター・野手の両方を高度にこなすことが非常に難しかったからだ。もちろんそれは「違い」であって、どっちがエラいとか上だとかいうことではない。

一流のピッチャーと一流のバッターの間に壁があったように、リーダーとフォロワー、その間には才能に関するどうしようもない壁がある。もちろん二刀流の大谷選手よろしく、リーダーシップも発揮するが、コツコツ職人芸で言われた通り仕上げるのも得意という人材もいる。が、それは少数である。早い時点でリーダーの資質を持った人材と、フォロワー向きの人材とをより分け、それぞれの適正能力を伸ばすようにすることが、情報社会における人材育成のカギだ。

フォロワー向きの人をリーダーにしたところで、何もメリットがないだけでなく、当人にとっても不幸である。世の中では有名な大企業でも、不祥事や偽装が起きた時、サラリーマン社長が記者会見に出てきて不穏当な対応をし、傷口をさらに広げてしまう事例も多い。それで大企業が潰れてしまった事例見られる。かつて食中毒事件から食肉偽装いたる不祥事の連続の中で解体された雪印乳業の破綻のきっかけも、社長の失言を含む対応の不備だった。

強い桃太郎の犬猿雉になりたいタイプの人はたくさんいるし、そういう人にとっては犬猿雉になって活躍することがハッピーなのだ。決して誰もが桃太郎になりたいわけではないし、桃太郎のロールをこなせるわけではない。それでも多くの人がリーダーになりたがるのは、日本企業の多くでリーダーの方が高給をもらえる賃金体系になっているからだ。本当に活躍に応じて給料をもらえるようになれば、生涯一兵卒を選ぶ人が増えるだろう。

フォロワーの方が意思決定の責任がない分、圧倒的に気楽である。それで満足のいく給料がもらえるならば大満足だろう。リーダーシップをとる能力がある人も、リスクや責任を取るのが大好きだからリーダーになるのではない(それじゃ「サイコパス」だ)。それよりも倫理観に基づいて、肚をくくらなくてはいけない時に逃げずにしっかり自分で責任を受け止めなくてはいけないという義務感を持てているかどうかの違いである。

そしてリーダーの器は努力や勉強で何とかなるたぐいのモノでないことは、20世紀末の日本での社会実験が証明している。高級官僚や財閥系大企業のように「秀才エリート」をリーダーの座につけてしまうのは、そもそもリーダーたる器として育っていない人間にリーダーとしての権限と責任を与えてしまうことになりやすい。そしてそこで起こったのは、数々の不祥事や商品の欠陥・偽装など組織的な犯罪ともいえる事件の数々である。

彼等は責任を恐れてリスクを取らないし、肚をくくって意志決定することもできない。まあ百歩譲って、官僚は意思決定と責任は政治家に任せればいいということにして、超イエスマンの能吏に徹することで役割が果せる部分もある(行政実務の方では無責任という問題は発生するが)。しかし、大企業の社長はその会社の危機においては自ら判断して意思決定しなくては会社自体が生き残れない。

高度成長期は、右肩上がりの景気の風に乗れば、経営者は何も判断せず何も意思決定しなくても、GDP並みの成長は約束されていた。それだからこそ、リーダーの器でない人を「長」につけても何とかなった。何もしないのにそこに座っているだけなのだから、まさに高度成長期の昭和30年代の遊園地や動物園に良くあった「お猿の電車」の運転手の猿と同じである。その後猿を椅子に縛り付けておくのは動物虐待だということから、生身の猿は晴れて開放され、ぬいぐるみとかがその後釜になったというのは、まさに時代の皮肉であろう。

だからこそ、肚をくくった意志決定とリスクテイキングなくては「経営」にならない現代においては、サラリーマン社長が会社の不祥事などリスクが起こった時に曖昧な対応をすることで大炎上を招き、かえって危機の傷口を広げてしまった事例など枚挙に問わなくなってきている。想定外の非常時の対応も同様だ。肚をくくった決断を瞬時にできる人でなくては経営者は務まらない。秀才エリートでは無理なのだ。

ましてやAIが実用化される情報化社会の21世紀である。リーダーシップの有無に加えて、いつも言っているように「コンピュータを使う人」と「コンピュータに使われる人」という対立構図も入ってくる。生まれながらのリーダーの器を持った人を見つけて、リーダーの座につける以外に、波乱の時代に生き残れる強靭な組織を動かしてゆくことはできない。桃太郎は生まれながらに桃太郎だし、犬猿雉はいかに努力や勉強をしたところで犬猿雉というのが、これから時代の掟である。

これもやはり、自分が持って生まれた運命を素直に受け入れ、それに忠実に生きてゆく以外に幸せな人生を送る手立てがないのが、情報社会の特徴なのだ。「成り上がり」ができたのは、右肩上がりの産業社会ならではのもの。そんな時代は終わったし、いつまでも過去の夢物語に捉われているようでは、どんどん時代に取り残されてゆく。隣の芝生を見ては何も生まれない。自分の内面に自分の幸せを見つけられない人は、情報社会を生き抜くことはできないのだ。


(21/12/31)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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