悲しきヴィーガン





世の中に宗教やアレルギーなどの理由から菜食主義をとっている人は結構多い。ヒンズー教などでは、階級の高い人はみなヴェジタリアンである。そういう人達のほとんどは、自分のために自分で菜食主義を選んでいるのであって、他人に押し付けることもないし、他人が肉食していても無視する。イスラム教徒は豚肉を食べず酒も飲まないが、キリスト教徒のアメリカ人や無宗教の中国人が豚肉を食べ酒を飲んでも、まさに他人事である。

ところが、中にはそうでない人もいる。いわゆる「ヴィーガン」だ。彼等は声高に肉食を否定し、その主義主張を他人に押しつける。異なる意見を認めず、多様な価値観の共存ということを全く許さない。挙句の果てにほとんどテロリストのように、自分と意見の異なる人達を暴力で攻撃したがる。だが自分が好きで菜食をやっているなら、他人への暴力や価値観の押し付けは要らないはずである。

なぜ彼等は暴力やテロに訴えたがるのか。それは極めて典型的な、他人への攻撃を自分自身への不満から目をそらす代償行為として行っているからだ。自分は本心ではやりたいのだが、頑張って我慢している。だから我慢せずに自由気ままにやりたいことをやっている人間が許せない。目の前にそういう連中がいるのが許せない。そしてさらにエスカレートして、そういう連中が生きていること自体が許せない。だから天誅を下すのだ、となる。

もし根がマゾの連中ならこの我慢が楽しいといって耐えられるし、それが恍惚の気持ち良さになるのだろうが、彼等はそうではない。その真逆で、自分がやりたくないのに、それが正義だと思っているから我慢してやっているのだ。まるで、この辛さに耐えるのこそ修行であるかのように。世の中、マゾでない限り我慢が幸せをもたらすことはない。にもかかわらず、苦行に耐えることが幸せの近道と勘違いしている人が結構いる。そして、この屈折感が問題を起こす。

この構造は、いつも事例に出す「ホモフォビア」と同じである。ホモセクシュアルを毛嫌いし、外国などでは虐殺事件なども引き起こす連中だ。彼等は自分の中にホモっ気があるからこそ、ホモセクシュアルの世界が気になるのだ。しかし、それを押し殺してヘテロな男性を装って生活している。あるいは、スペクトラム的にホモとヘテロの両面があるのだが、その中でホモセクシュアルな部分を隠して生活している。

ここから、極めて屈折した構造が生まれる。自分がこれだけ辛く我慢しているのに、自由気ままに生きている連中を見ると悔しくて仕方がない。だから、そういう連中を許せないという構造である。ホモセクシュアルの要素が全くなければ、変わったヤツとは思うかもしれないがゲイの連中が何をやろうとそんなのは完全に他人事なのでそもそも気にならないし、自分がしたいのを我慢しているのでなければ悔しくもないし腹も立たない。だが彼等はそうではないから、自分と同じ我慢、自分と同じ苦痛を相手にも強いようとするのだ。

ヴィーガンがこれだけ過激になる裏には、菜食が辛くて仕方ないということがあるのだろう。でも自分は菜食すべきだと思うから我慢してやっている。しかし世間には、自分が食いたくて仕方ない肉食三昧して幸せになっているヤツらがいる。お前らだけが勝手にいい思いをするのは絶対に許せない。だからそいつらにもこの苦痛を味あわせたい。憎しみの対象だ。殺してやる。殲滅してやる。それがせめてもの憂さ晴らしだ。こういう精神構造である。

要は単に自分が自分で不幸になっているというだけなのに、他人の幸せが許せないのだ。 それは構造的には、コミンテルン的な共産主義の「みんなで貧乏になって、不幸になって、痛みを分け合おう」と同じである。その根っこは、自分は自分、他人は他人と割り切ることが出来ないところにある。あたかも、自分の不幸は他人のせいだと言いたいかのようだ。その結果、他人も不幸になるべきだ、そうでなくては不公平だという「トンデモ理論」が飛び出してくることになる。

このように相手を自分と同じところまで引きずりおろしたがるというのは、見方を変えれば「自分を助けて」と他人に泣きついていることなので、結局のところ彼等が、他人に、社会に、甘えているだけの証である。そういう意味では、なんでも他人のせいにしたがることで、他人に甘えている左翼の活動家の基本的な意識構造そのものなので、互いに共鳴し呼び合うことがあるのもわからないではない。

我慢からは決して幸せは生まれない。そこから生まれるのは憎悪だけだ。それでは結局、みんな不幸になってしまう。21世紀の現代において一番大切なのは、みんなが自分の好きなことをして互いに干渉しないことだ。自分のやりたいことがわからないからかもしれないが、自分の好きなことをやるのができないからと言って、他の人が自分と同じ不孝になることを望むのはいけない。それこそが、情報社会の幸せの掟なのだ。


(22/01/07)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる