自重互敬





バラ撒きを求めようと、働かずしてもベーシックインカムで何とか生きて行ける社会を理想にしようと、それは思想信条の自由であり、自分の心の中で信念として思う分には何人も異議を差し挟むことはできない。人生ではできるだけ生きる努力をして、更なる高みを求めることを良しとしている人も多いとは思うが、それはそれで一つの生き方に過ぎず、それが全てでも、それが正しいわけでもない。いろいろな価値観があるべきだし、それを認め合う余裕が大切なのだ。

どんな生き方であろうとも、それが自己完結していて、他人にそれ以上のモノを求めないのであれば、それはそれで立派な生き方ではある。そもそも生き方には何が正しいとか、そういう価値観があるわけではない。自分がどうしたいのかどう生きたいのか、基本的には好き嫌いの問題である。生き方の問題に他人を絡ませることの方がおかしい。この原則をきっちり守っている限りにおいては、どんな生き方も認められるべきである。

お金を稼ぐためにイヤなことを我慢して頑張るより、腹が減ってもゴロゴロ寝転んで過ごしていたいというのも一つの価値観だし、とにかく頑張りまくって金を貯めてもっと上を目指すんだというのも一つの価値観だ。自分が好きで選んでいる限りにおいては、価値観の間に貴賎も上下関係もない。他人に迷惑をかけたり、他人に責任を押し付けたりしないのであれば、自分の生き方は自由に選べる。ホームレスをしたければ、ひっそりと人知れずにやればいい。

東洋においては古くから清貧という考え方があり、贅沢や無駄を一切排して生きてゆくに必要な最低限以上は一切求めないことで、精神的な高みを極めるという発想も広く尊重されている。物欲の塊の方こそ醜く悟りを開いていない生き方だという考えも、仏の教えとして広く知られている。他人に迷惑をかけない限り、自分がそういう生き方をしたがったり、する分には一向に構わない。これこそ人権としての自由であり、生物としての人間の基本である。

しかしその過程において許されないのは、自分の価値観を他人に押し付けるような社会を実現しようとすることだ。心の内面にある信条には正しいも間違いもなく、百人百様であるべきだ。価値観の押し付けは目指す内容を問わず、多様性を認めない画一的な全体主義を志向しているからだ。そのような全体主義は思想信条の自由と対立するものだし、自由に生き方を選べない社会を目指している以上、実はブーメランとなって自分自身の思想信条の自由をも危なくするものである。

こういう視点から考えると、他人にもベーシックインカムだけで生きるような「貧しい平等」を押し付けたり、自分の能力と才覚だけで稼いだモノを前提に自主独立で生きている人に対して「儲かっているなら俺にももっとよこせ」とカツアゲをしたりするのは、清貧に生きようとする信念とは相容れないものであるだけでなく、他の価値観を認めず自分の価値観だけが正しいと他人に強要することになる。

自分の意見が自分にとって一番正しいのは当たり前である。しかしそのような場合は、相手もまた自分の意見が一番正しいと思っていると思わなくてはならない。立場が入れ替わっても、対称的に成り立つ関係性にしなくては、共存は不可能だし、相手もまた自分を潰しに来ると思わなくてはならない。違う意見を持つもの同士が共存できるようなあり方を見いだせなくては、自分が自分の意見を正しいと信じることは不可能なのだ。

大切なのは、まさにこの「自重互敬」である。思想信条の自由を支えるものこそ、この「自重互敬」の精神なのだ。互いに自分の意見を相手に押し付けず、健全に共存できるような距離感を保つ。これこそ、人類が平和に生きてゆくための基本中の基本である。しかし、社会全体の生産力が貧しく、全員が生き残れるだけの食い物がない状況では、相手を認めるも何も、まず目の前の食い物を奪い合うことに終始することになる。

その段階では、相手と自分のどちらが飢えて死ぬかという生存競争になっている。これでは、相手のことを考える余裕が生まれえるはずがない。マズローの欲求五段階説ではないが、人間は野生動物とは違い、生産力が上がって社会が豊かになると、食料を得たり危険から身を守ったりと命を維持して行くこと自体が難しかった段階から、段々より高度な目標を持てるようになる。

この段階に至った人間のアイデンティティー・人間らしさこそ、「相手を慮る」気持ちである。これができない人間は、獣であり畜生である。人類社会は21世紀の到来とともに情報社会という新たな段階へと進化した。その段階に達しても、「生活生理欲求」や「安全確保欲求」のレベルを保証するものでしかない「全体主義」を指向するというのは、完全な時代錯誤といえる。「自重互敬」の精神を持てない人間は、21世紀の情報社会を生き抜いていくことはできない。これこそ現代最大の「ディバイド」かもしれない。


(22/01/14)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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