コロナ騒動があぶり出したもの





21世紀に入り世の中が情報社会化するとともに、「情報弱者」という概念がとりただされるようになった。当初情報弱者というのは、デジタル化と共に急速に進歩する情報インフラの変化に付いて行けず、情報機器が使えないために世の中の進歩から取り残される人と思われてきた。たとえば、パソコンが使えないためにmailが受け取れない。スマホが使えないためにWebにアクセスできない。情報弱者とは当初そういうイメージだった。

しかし、21世紀も20年が経ち情報社会化が進んだ今起こったコロナ騒動は、違う側面を浮き彫りにした。かつての「情報弱者」は技術的に情報を受け取れるかどうかという問題であった。しかし、それより深刻な問題があることをコロナ禍は浮き彫りにした。情報を受け取れるかどうかではなく、受け取ってからその情報を元に自己責任で判断して行動できるかどうかという問題の方がより深刻であることがわかったのだ。

21世紀に入り、情報社会化は格段に進んだ。そこでわかったことは、情報そのものはスピードこそ違え何らかの形で受け取ることは可能であるということだ。デジタル機器を使えるかどうかということでスピードの差こそあれ、ディバイドは決してない。それが社会実験として証明された。たとえば、Yahooニュースもそのソースはほとんど既存のマスメディアか通信社だ。新聞が配られるまでには半日かかるかもしれないが、半日経てばデジタルメディアでなくとも同じ情報は入手できる。

そしてその程度の時間差は、株のデイトレーダーでもなければほとんど問題にならない。地震情報などは、デジタルメディアでもレガシーメディアでも数秒の差でしかない。つまりデジタルメディアかレガシーメディアかという違いは時間差の問題だけでしかない。時間差こそあれ、レガシーメディアでも情報は受け取ることができる。従って、絶対的に情報にアクセスすることできない「情報弱者」というのは存在しないことが明確になった。

その一方で2020年から2021年にかけての世界的なコロナ騒動は、情報を受け取ってからの人による行動の違いを浮き彫りにした。デジタルディバイドは受け取れるかどうかではない。受け取って、それを元に自分で判断ができる人。受け取っても右往左往するだけで、どうするかを指示されないと行動できない人。この違いこそ大きい。ここにこそ、情報社会を生きてゆけるかどうかという決定的な分かれ道があることが、未来を見通せる目がある人にとっては明らかになった。

情報弱者かそうでないかというのは、デジタル機器との親和性ではなく、自分で自分の行動を意思決定できるかどうかという問題であることが明確になったのだ。情報社会においては、あらゆる情報が入手可能になるため、それをもとに自分で判断して行動する「自己責任」が原則となる。その一方で、産業社会のライン型組織に慣れ過ぎたあまり、自分で考える力を失い、誰かに指示されたり、マニュアルで決められた通りにしか行動できない人達はあまりに多い。

世の中には二つのタイプの人がいる。自分できちんと自分の行動を律せる人。そして、誰かにすがらなくては何をしていいのかわからない人。産業社会の組織構造・社会構造の基本は上意下達のライン型指揮命令系統にあった。それは、生産力やハード的な技術力に比して情報の流通・管理の機械化が遅れたため、組織の情報伝達やコントロールを人海戦術で行わなくてはならなかったからだ。

そのような社会では、多くのことが「上から指示」されてくる。従ってトップに立つもの以外は、自分で考えることができず言われた通りにこなすことしかできないタイプの人間でも何とかこなせることができた。もっとも、日本の企業の不幸はそういう言われたことしかできないタイプの人間が、日本的経営特有の年功制によりしばしばトップの座についてしまうことにより引き起こされているのだが。

20世紀後半から進んできた社会の情報化は、21世紀に入り一層加速した。もはや「言われた通りにこなす」作業はホワイトカラー的な領域も含めて機械によりこなせるようになった。この状況下で組織の中で人間がこなすべき作業は、「肚をくくって自らの責任により決断する」ことだけとなった。機械には判断こそできても、責任は取れないからだ。そしてそれができない受身の人間は「真の情報弱者」となった。

さてコロナ騒動においては、厚労省利権により、製薬関係、医療関係が爆発的な高利益を得たことからもわかるように、悪の温床である厚労省の医系技官が跋扈し、国民を脅すことでここぞとばかりに自分たちの利権の極大化を図った。これに乗ったのが、客観的な事実報道よりもセンセーションで視聴率を稼ごうというマスコミである。ここぞとばかりに「煽り報道」を繰り返し、厚労省の医系技官の思う壺通りその手先となってで国民を脅しまくった。

これに対し、前者のタイプはインターネット等を駆使して正確な情報をつかみ、面従腹背で「見せマスク」さえしていれば何とかなると乗り切った。その一方で後者の自己意思決定ができない「情報弱者」は官僚の手玉に取られ、虚報に恐れをなして家にこもってしまった。実はこの構造こそ、常々語ってきた21世紀の情報社会における「コンピュータ以上・以下のディバイド」なのである。まさにこの時代だからこそ起こった現象といえよう。

そう考えてゆくとポストコロナとは、それまでの「数」が正義だった産業社会的なスキームに終止符を打ち、「コンピュータを使う」階級の「情報強者」が社会のヘゲモニーを握る時代の到来ということができる。コロナ騒動があぶりだしたもの。それは何にもまして「完全なる情報社会への移行」に他ならない。それこそが、百年後の歴史家がこの2020年と2021年を振り返るキーワードなのだ。


(22/01/21)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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