手本がない世界





本来、人間は常にフロンティアを求めて生きる生物である。まだ見ぬ可能性に気付くと、ひたすらそれを極めてみたくなる。だからこそ、ホモサピエンスはわずか数万年という地球史的にはごく短い期間に全地球に広がり、良きにつけ悪しきにつけかつて地球ではなかったほどに進化し文明を築き上げることができたのはいうまでもない。まさに、未知なるモノを追い求める指向性が、ある種の本能としてDNAの中に刻まれていたのだ。

フロンティアにおいてはベンチマークすべき手本はない。全て自らリスクを取り、自分の才覚でソリューションを見つけ、それに賭けて突き進むしかない。人類の歴史が示しているのは、他の動物にはないリスクを取ってチャンスを捉まえる能力こそが、人類を人類たらしめている特徴ということだ。その勇敢さがDNAの中にあることが、人類の強みでありアイデンティティーだということができる。

基本的に野生動物は火を怖れ、炎や熱を感じると恐がって逃げてしまう。人間は火を調理に代表されるように生活になくてはならないものとするだけでなく、より強力な「火」を手に入れるべく、石炭・石油を発見して採掘し、火薬を発明し、ついには核分裂・核融合まで実現して太陽を手の中に収めてしまった。人類の歴史は、それまでの野生動物が最もリスクと感じていたより強力な「火」を我が物にする歴史であったとも言える。

実はこのハイリスク・ハイリターンをモノにする勇気こそ人間の証であり、人を人として成り立たせてきたものである。しかし、産業革命以降の産業社会の19世紀・20世紀の約200年間は、そういう意味では多くの人間にとってはこの本能を忘れて生きてきた時代だったといういことができる。生産力の爆発的な強化は人類社会に膨大な富を生み出し、リスクを取らなくてもそれなりに生きてゆくことが可能な社会をもたらした。

それとともに、リスクを取らず言われた通りに作業をする大量の人間が必要とされたことも見逃せない。すなわち産業革命による生産力の爆発的な増大は、それに合わせた工場の管理運営の規模拡大のみならず、原材料の調達から輸送・流通そして決済まで、今でいうバリューチェーンのすべての局面に対し同じようなペースでの拡大をもたらした。しかしそれらのプロセスにおいては、工場で起こったほどの機械化は当初は実現できなかった。

このため、機械化が進まない領域では、人海戦術による処理が必要となった。このような領域ではマニュアル通りに淡々と作業をこなすことが求められたため、多くの人間が定型的な業務を繰り返すこととなった。近代教育は、このような定型的作業をこなす人材の育成を目的としていたため、人類はその原点ともいえるフロンティアを求める本能を見失ってしまうことになった。

その後の技術の発展により、次第にこのような領域は縮小していったが、組織の運営に伴う情報処理にまでその波が及ぶのは、20世紀も末期になってからである。したがって、企業でもヘッドクォーター機能においては、知的労働ではあるものの労働集約的な人海戦術が最後まで残っていた。しかしその領域も21世紀となり、AIが実用化されると機械によって処理可能な作業となった。産業革命以来続いた「人間が行う定型処理」はもう必要とされない。

このように情報社会化は、人間だけが持つ本来の人間らしさを取り戻す大いなるパラダイムシフトをもたらした。情報社会とは、手本がない世界、フロンティアな世界であり、本来の人間のDNAに書き込まれていた本能を復活させることを要求する。こう考えてゆけば、情報社会化は産業社会時代の非人間的な労働から人間を解放し、原始時代のエネルギッシュな生き方を甦らせるのだ。手本がない世界の渡り方。それは、野生の勘を取り戻せ。


(22/01/28)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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