権威が崩れる時





産業社会はある意味、社会の中に「権威」があった最後の時代でもあった。産業社会においてはその前提としての大衆社会が成立しており、それまでの人類の歴史にあったようなヒエラルキー、たとえば古代の貴族と奴隷、中世の宗教的権威、近世の絶対王政も終焉していた。生まれや身分といった区分はなくなり、基本的に政治的な意味ではデモクラティックになったものの、ライン的な指揮命令の上下関係は歴然として残っていた。

民主主義や大衆社会を生み出した産業社会においても、そのようヒエラルキーが存在していた裏には、そのような秩序を生み出すエネルギー源が存在しているはずである。そうでなければ、社会の主役化した大衆は誰かが「命令」したところでそれに従うわけがない。その裏付けとなっているのが、「金を出す側と金を受け取る側という」金を介した上下関係である。金を貰うためには言う事を聞く必要がある。

「金」こそは産業革命以降に顕著になった、新たな「権威」の源泉である。ライン的な指揮命令系統も、近代社会においては「金」の論理で支えられている。19世紀以降の近代国家の軍隊も、員数合わせの歩兵こそ徴兵でまかなえたが、組織としての軍隊を成り立たせていたのは職業軍人であり、軍隊の指揮命令系統は、職業軍人が仕事として取り組んでいるからこそ機能した。そういう意味では、会社や官庁といった近代組織となんら変わることはない。

産業社会においては肉体労働は技術の発展とともに次々と機械によって置き換えられていった一方、その管理・運用などについては人海戦術で行う必要があったため、ホワイトカラー的な情報処理作業に関してはライン的な指揮命令系統で管理された組織が必要であった。しかし、その領域も情報社会においてはコンピュータシステムにより処理できるようになった。もはや組織の中で指示を出すことにより、人間にシステムの構成要素としての役割を担わせることは必要なくなった。

21世紀に入り情報社会になるとともに、人的な労働集約を前提とするライン型の指揮命令系統は必要なくなり、産業社会的なヒエラルキーが崩壊した。もっとも「金を介した命令・支配関係」がなくなったわけではないが、それが社会的な上下関係を規定するものでなくなったことは間違いない。近代教育においては、ヒエラルキーの中に適応する人間を大量生産したが、そこで育った人達が一気にヒエラルキーのない社会に放り出されることになる。

それとともに、産業社会においてはそのステータスが認められていた「権威」が一気に形骸化し、そのメッキが剥げてしまった。コロナ騒動においてジャーナリズムや有識者、特に野党の政治家などが、騒げば騒ぐほど人々の心が離反して行く現象は、まさにこの産業社会的な権威の形骸化の象徴であるといえよう。過去、権威を振りかざして威張っていた人ほど、この直撃を受ける。無駄な抵抗はやめて、おとなしくフェードアウトした方が身のためだろう。

もはやライン形組織は過去のものとなった。上から降ってくる指示命令に従っていれば、それなりに給料がもらえる時代は前世紀の遺物となってしまったのだ。とはいえ、人々の心理はそう簡単に変わるものではない。いつも使っている、「桃太郎と犬・猿・雉」の例えのごとく、リーダーとして生まれてきたものと、フォロワーとして生まれてきたもの差は歴然として大きい。

世の中には権威にすがらなくては生きられない人も大勢いるのだ。そういう「自分の足で立てない人」の方が、絶対数としては多いかもしれない。こういう人たちこそ、ポピュリズムに走りやすい。そういう危険な道に陥ることなく、ウマく社会構造の変化の中でソフトランディングさせられるか。実は今人類社会で最も問われているのはこの問題ではないか。権威なき社会をどう生きて行くのか。そのマニュアルを示すことこそ、今の世界の喫緊の課題であろう。


(22/02/04)

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