他人を気にするな、自分の世界を築け





産業社会が終焉し、情報社会へと移行することにより、「数の論理」は終わった、情報社会においては、大衆に受け入れられ、多数の支持を得ることだけが正解ではない。数が正義だったのは、産業社会においては「金」こそがパワーの源泉だったからだ。多数に支持されることは、そこでより多くの「金」が動くことを意味する。そして産業社会の基本である「大量生産・大量販売のマスマーケティング」を前提にする限り、そのシステムを維持する金を得るためには数が必要になる。

少なくとも産業社会のビジネスにおいては、「数こそ力」が絶対だった。そして音楽やアートといった表現者の世界にも、このビジネスの論理が罷り通ったのが産業社会である。作品が商品として「売れる」以上、より売れるもの、より支持を集めて大きい金を生み出すものこそが、良い作品、正しい作品とされるようになってしまった。が、これは表現者の論理ではなく、その周辺で商売を行っているビジネスマンの論理である。にもかかわらず、あたかもこれが常識のようになってしまった。

そこには「多くの人から支持されているということは、多くの人に感動を与えているんだ」という虚構による論理のすげ替えがある。懐かしい歌を聞いて青春時代を思い出すように、人々の心に刺さった作品ももちろんある。だが、ヒットした作品の全てがそういう心の糧になっているわけではない。ミリオンセラーになった曲や動員記録を作った映画でも、言われれば「そんなのあったね」という程度の記憶しか残さなかったものも数多い。エバグリーンではなく、一過性のものが多いからこそヒットが次々と生まれるのだ。

このように「売れたかどうか」は、産業社会特有の「数の論理」が表現作品の分野にも多大なる影響力をもつことにより引き起こされた現象である。表現作品の評価は、あくまでも表現者自身が表現したかったものが作品の中に的確に具現化されているかどうかの一点にかかっている。そこには他人は介在しない。自分が納得するかどうか。そういう意味では、表現者は自分自身に一番厳しくなくてはいけない。他人がその作品を見てどう思うかはその先の問題であり、自分としての評価が定まってからのことである。

売れたかどうか、儲かったかどうかはあくまでもビジネスとしての評価の話だ。その作品の評価とは直接的には関係がない。作品は、本当に自分が表現したかったものが表現できているのか、本当に自分の心象の中にあった作品を具現化できたのか、その一点で評価されるべきである。そしてその審判ができるのは、表現者自身しかない。自分の心の中にあるそのモチベーションとなった情念は、自分にしかわからないからだ。

どんなに売れたとしても、出来た作品が自分が作りたかったものと違うのであれば、それは表現者ではない。ビジネスとしてのクリエイターかもしれないが、それはあくまでも「生業」である。自分の分身としての「作品」を創り上げる行為とは全く異なる。作者の意図とは全く関係ないところで作品が面白がられ、大ヒットしてしまうこともままある。これなど「売れること」と「表現すること」の間にある大きな溝を端的に示しているということが出来るだろう。

ポップミュージックは、かつては最も金が動いていたビジネスだった。かつてアルバムではミリオンセラーが連発し、ツアーもアリーナツアーが常識となった時代があった。その頂点ともいえる1990年代には、あたかもミリオンセラーのヒットを出し、アリーナツアーを完売しなくては一流のアーティストではないかのような感さえあった。この時代においては、「売れること」=アーティストとしての評価であったといっても良いだろう。

しかしその実態は、アーティスト本人にしかわからないものがあった。ある線を越えてビッグになっても、自分の実入りはほとんど変わらない。逆に自分の自由になる時間や、自分の自由に出来る領域はどんどん減ってゆく。あたかも増え続けるスタッフを食わせるために、自分達が働いているかのようになるというのだ。それでも、ファンの人が喜んでくれる姿があるから、頑張る気になれる。これでは表現者としての本来の自分から、どんどん離れて行ってしまうことになる。

幸か不幸か、エンタテインメントビジネスがビッグビジネスたり得た時代は、産業社会と共に終焉した。情報社会においては、ビジネスとしてのクリエイターではなく、本来の意味での表現者としてきちんと評価される素地が出来上がった。ショートヘッドとロングテールがはっきり分かれるのが、情報社会の特徴だ。ある意味人気youtuberのように、売れる才能をもった芸人なら、大手プロダクションに所属せずとも人気者になり、ビジネスとしての芸を売りまくって成功することができる。ショートヘッドの成功も、一気に成し遂げることが可能な時代となった。

その一方で、本当の表現者はロングテールで生息可能になる。その「作品」を評価してくれる人は、世界中にはバラバラだがそれなりにいるだろう。それができない作品しか作れない人は表現者ではない。そんな世界にまばらにいるファンにも作品を確実に届けることができるのも、また情報社会の特徴である。このようなモデルを取るのであれば、自分の表現したいものがそのまま評価されることになる。他人にもてはやされることより、自分の心に素直でいろ。それが情報社会の表現者の掟である。


(22/02/11)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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