エンゲルスの罪





マルクスにおける「分配論」ほど、後世誤解されてしまったものはない。社会主義・共産主義の理論的支柱が「マルクス・エンゲルス主義」と呼ばれてきた(共産主義者が呼んできた)だけに、資本論などの書物に書かれてい共産主義の理論がマルクスの考え方であると思いがちである。しかしマルクス本人が考えていた理想社会のあり方は、共産主義的な「貧しい悪平等」を実現する社会ではなかった。それはもっと人間社会の本質を考慮したヴィジョナリーなものであった。

一言で言ってしまえば、マルクスの理想とは「生産力が上がり豊かな社会になれば、すべてのステークホールダーが皆満足し納得できるだけの分け前を得ることができるようになる」というものである。まさにこれは理念であり、ヴィジョンである。具体的な手法やそこにいたる戦略を示したものではない。哲学者であったマルクスらしく、普遍的な人類社会の理想形を示したものということができる。

マルクスはヘーゲルなどに連なるドイツ哲学の伝統の上に乗った哲学者なので、「人間というのはこういうもんだよね」「社会というのはこういうもんだよね」という、客観的というかクールな見方しかしていない。それに対して政治活動家でアジテーターだったエンゲルスは、「こうあるべきだ」という極めて主観的な価値観の押し付けでしか議論を展開していない。ある意味マルクスとエンゲルスは水と油、立ち位置が全く違うのだ。

資本論や共産党宣言など、マルクス・エンゲルス著とされている文章を読むときには、この点に注意しなくてはいけない。威勢のいい「べき論」は全てエンゲルスが換骨奪胎した政治的文章である。そのような理論はマルクスの思想からは程遠いものである。既存の左翼政党が主張する「共産主義」は、みなこのエンゲルスの思想が基本になっている。では エンゲルスにおける「分配論」とはどんなものであろうか。それはマルクスの理想論とは全く違う政治的なアジテーションでしかない。

その本質を一言で言ってしまえば、「生産力が未熟な貧しい社会のまま、全てのステークホールダーが皆貧しくなれば、悪平等的な公平さが実現できる」というものである。僅かな利益の「分け前に預かれない」大衆が大量にいた時代である。彼等は「分け前に預かれていた」少数の人間に対して怒りを持っていた。そのエネルギーを利用し、ポピュリズム的に貧しい大衆の「数」を惹きつけることを目的とした政治的アジテーションである。

活動家のエンゲルスらしく、その思想は権力を握るための手段としてオプティマイズしたものであり、マルクスの哲学的な理想を求めたものとは似ても似つかぬものとなってしまった。左翼・共産主義の間違いは、ここから始まったといえる。それ以降の左翼・共産主義は基本的には「エンゲルス・レーニン主義」であり、本来のマルクスの思想からは程遠いものである。その本質はマルクスの理想主義ではなく、極めて権力志向の強いポピュリズムである。

「反帝・反スタ」を拠り所とし既存左翼と対立していたかつての新左翼は、既存左翼の理論的支柱となっているこの「エンゲルス・レーニン主義的なるもの」をも否定した。そのため「経済学哲学草稿」のような純粋なマルクスの原典が読まれていた。この時代に政治に関心があった人なら、マルクスとエンゲルスの「大きな差異」というのがよく理解できるだろう。しかしそれ以外の人は既成左翼的な文脈でしか共産主義を理解できないので、「マルクス=エンゲルス」になってしまっている。

ここでもう一度原典に戻るべきなのだ。哲学者マルクスの掲げた「理想社会」は、19世紀では夢のまた夢、20世紀でもヴィジョナリーな物語であった。自分が生み出した付加価値は、自分のものとして受け取れる。それは21世紀の情報社会になった今ならば、かなりの度合いで実現できる可能性が高まっている。それが出来ていないのは、20世紀的な産業社会の発想から抜け出られない人、産業社会的な利権構造にどっぷりハマっている人がまだ過半数を占めているからである。左翼の方々も含めて。


(22/02/18)

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