無用の人





日本の企業の生産性の悪さは、古くはバブルに向かう1980年代より海外の経営学者が指摘していた事実だ。これは日本企業がグローバルにビジネスを行うようになったため、日本の企業と海外の巨大企業の生産性が同列で比較されるようになり起こったことである。当時から、日本の製造業の製造現場における生産性の高さは指摘されていた。「ジャストインタイム」と「自働化」というトヨタ式生産方式は世界中から着目され、カンバンとかカイゼンとかは、そのまま日本発のグローバルな用語となったぐらいである。

しかしその一方で、すでに日本企業の利益率の悪さも指摘されていたのだ。当時海外で発表されていた論文を読むと、この落差は「ホワイトカラーの生産性の悪さ」に起因しているというところまで、すでに分析されていたことがわかる。これは、既得権化した日本式雇用の壁が引き起こした悲劇だ。失われた10年が、失われた20年になり、そして失われた30年になってしまった最大の原因は、この「ホワイトカラーの生産性の悪さ」に全くメスが入れられなかったことがあげられる。

そのルーツを知るべく、高度成長期を振り返ってみよう。当時人気だったコミックバンド「クレイジー・キャッツ」の植木等さんのヒット曲ではないが、「サラリーマンは気楽な稼業と」いうのがそのころのホワイトカラーに対する認識であった。確かに、営業もプッシュして押し込むのではなく、限られた生産量の中どうやって発注量を断るかが、当時のルートセールスの仕事であった。だから午前中で仕事が終わる。あとは、当時エアコンが効いていた限られたスペースである喫茶店と映画館が暇な営業マンの暇潰しの場となった。これらの業種が斜陽産業になってしまった理由もここにある。

この「ホワイトカラーの生産性の悪さ」はそのまま21世紀に至るまで引き継がれた。そして突然起こったコロナ禍。仕方なく在宅でリモート勤務が始まった途端、ドラスティックな事実が判明する。ただ会社に行って席にいるだけで仕事をしている気になっている会社員が、何と多いことか。付加価値をなにも生産せずに、ただハンコを押しているだけの社員があまりに多いという事実が、在宅勤務により白日の下に晒されてしまったのだ。まあ、そういう意味では、コロナ禍もプラスのメリットがなかったわけではないということか。

祭りの御輿の周りには人が集まるが、その中でも本当に御輿を担いでいる人は限られる。多くの参加者は、脇で「ソイヤソイヤ」掛け声を掛けながら酒を飲んでいるだけで、全く汗をかいていない。そこで脇にいただけなのだが、そのワリには本人は御輿担ぎに参加した気になっている。「現場にいる」ということだけなのだが、なぜだか自分も参加したという思いになってしまうのだ。会社もそれと同じである。本人は何も生産的なことには関わっていないのだが、オフィスにいるというだけで仕事した気になってしまう。

これを理解するには、産業革命以降のオフィスの歴史を知る必要がある。かつては、産業革命以降の技術革新とともに飛躍的に生産力が伸びる一方、情報処理は人海戦術で処理しなくてはならなかったので、生産や売上が拡大するのに比例して、それなりに事務系社員の頭数が必要だったことは間違いない。エクセルがなかった戦前の本社機能では、手書きにソロバンで財務や在庫管理の表を作っていた。この時代においては、事務をこなす社員をたくさん抱えていなくては経営がおぼつかなかったことは確かだ。

だがそれは20世紀半ばまでのこと。コンピュータが実用化してからは、その領域はどんどん機械によって置き換えられていった。まず大型のホストコンピュータが導入され、会社全体の管理データは一括管理されるようになった。しかし、この段階ではまだ個別の帳票が残っていた。続いてマイクロコンピュータ革命が起こり、パソコンが実用化し普及した。この段階になると、帳票をなくして直接入力するだけでなく、個人が使う資料や台帳といったデータもコンピュータとネットワークで処理されるようになった。

諸外国においては、ここで不要になった社員を人員整理し、スリムなオフィスを実現することで生産性を一気に高めた。しかし日本においては法制度的に雇用が厚く守られていたため、コンピュータの導入により不要になった社員も雇用し続けなくてはならなかった。コンピュータがなかった時代の労働集約的な事務作業に必要とされる定員が、その後も維持されてしまったのだ。こうなると「社員の席」そのものが既得権化・聖域化し、それを減らすことさえ難しくなった。

これが起こり出したのは、パソコン革命がオフィスに広がった1980年代からである。それゆえ更に情報化が進む90年代以降になると、システム化によりさらにヘッドクォーターの人員を減らして効率を上げていった欧米のグローバル企業と、オフィスの余剰人員を抱えたままの日本の大企業の生産性の差は、さらに拡大した。日本の大企業には、本来必要のない「仕事のない」人が溢れているのだ。そして、その本人も「いれば貰える給料」を既得権と考えて何か生産的なことをやろうという気持ちさえなくなってしまう。

この構造的問題は、日本企業の社内でもリアルタイムでわかっている人間には充分理解されていた。しかし、日本の労務に関する法体系は余りに厳しく、如何ともすることができなかった。90年代から00年代に現場のマネージャーになったいわゆる新人類世代には、今でも新古典派の新自由主義の信奉者が多いのは、この板挟みを痛いほど体験したせいである。しかし、コロナ禍のリモートワークはこの構造的問題を浮き彫りにしてくれた。さしもの日本企業も、これが変化の機会となるだろう。もしかして、これが唯一のコロナの「置き土産」かもしれないが。


(22/02/25)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる