文化の掟





文化には極めて厳しい階級構造がある。決して乗り越えることができない、非可逆的な壁がそこにあるのだ。それは文化そのものが持っている特質に由来する。文化とは無から有を生み出す行為である。すなわち文化創造とは、情報エントロピーを減少させるネゲントロピーにより新たな秩序を生み出す行為なのだ。そしてネゲントロピーを生み出すのは誰にでもできることではない。文化を生みだせる人間は、数多くの人類の中でも限られ・選びぬかれた者だけである。

AIでは、その最初にプログラムされた学習プロセスに従って学習し、その結果に基づいて何かを行うというロジックを持っている。このロジックの構造を考えると、プログラムと学習対象を含む系全体で考えれば、アウトプットは既存の情報の組み合わせに過ぎず、それにより情報エントロピーが減少することはない。この「AIにはネゲントロピーを生み出すことはできない」という事実こそ、21世紀の情報社会を考える上で最も重要な視点だ。

まさに「この文化を生み出す」ことこそ、21世紀の情報社会において人間の果すべき役割である。これはある意味、人間の所作の中で最も神に近い行為だ。人類の歴史をみると、音楽や踊り、絵画や彫刻などの創造行為は、宗教行為として始まったことがわかる。これらの才能は、古代人にとっては神が乗り移ったものと信じられて、畏怖の対象となっていた。今でも声明やゴスペル、神仏の像や絵画など、多くの宗教においてその片鱗を垣間見ることができる。

さてこの文化という視点からみた階級構造を分析して行こう。まずは文化を作りだせるクリエイター。今見たように、情報のネゲントロピーを生み出せる、神の啓示を受けたというか、神の域に達したというか、とにかく別格な人間である。こういう人がいなければ、そもそも文化は生み出せないし、人間もそこいらのケダモノと何ら変わらない存在であったろう。これがどんな時代においても最高位に位置づけられることは間違いない。

その周辺には数多くの有象無象の人々がいる。クリエイターの最も近くには、自らはクリエイターではないが、文化を見る目を持っているいわゆる「目利き層」がいる。具体的には、絵画において才能のある新人を発掘してくる画商や、贔屓のアーティストに支援を惜しまない富裕層のパトロンなどである。そういう直接的な支援のみならず、この層は一般大衆の一員として発信力を持っているので、エバンジェリストとして流行を生み出すことにも繋がる。

「目利き」のパトロンたちがいなくては、家の太いアーティストしか世に出れなくなってしまうという意味では、文化を具現化する上で大きな貢献をしている。またその審美眼も、新しい文化をいち早く発見し、世の中に広めてゆく上では大きな力となっている。ある意味、社会的な影響力という意味では、クリエイターとパトロンを合わせて「発信側」と考えることができる。

純粋消費者の客は、金づるという意味では文化マーケットの重要な構成員だが、文化を生み出す面では全く貢献していない。お客さんとしては重要なのでそれなりに大事にしてはもらえるが、後付けで出来上がった文化をただただ消費しているだけだからだ。かつての自身がクリエイターでなければ輪に入れなかった「ひらがなおたく」時代のコミケと、薄い本をひたすら買いに行く場としての「カタカナオタク」時代のコミケとの違いを考えればよくわかるだろう。

一番質が悪いのは、文化にはつきものの評論家である。自分には創造できるセンスがないにもかかわらず、過去の創造作品を勉強し分析することで、さも自分が本質をわかっているような偉そうな口ぶりで語る。もちろん、自らもクリエイターであると同時に、その分野での研究者・教育者であるという人も存在する。このような人は自分が創作できるがゆえに、その視点から絵の真贋を鑑定したり、作られた時代を比定したりといったことを行っている。これは全く問題がないし、作品制作以外の分野でも文化を生み出しているということができる。

しかし、創作ができない評論家の人は困りものだ。こういう人は、自分が創作できないがゆえに、語る内容も作品の批判のようなネガティブなものばかりになりがちである。そして批判することで作者に対しマウントを取った気になっている。これは単なるコンプレックスの裏返しでしかない。クリエイターは他人の批判などしない。そんな暇があったら、もっといい自分の作品を創ることに費やすだろう。他人を批判するということ自体が、自分の創造性のなさの証明なのだ。

このような考え方から見ると、学問が文化足りうる条件も見えてくる。新たな発明・発見があるかないか。今までの学問の積み上げから出てくる想定内の結論であれば、それは情報エントロピーを下げることにはならない。しかし、今までになかった全く新しい発想に基づく発明や発見は、それまでの学問の体系を塗り替えることにさえ繋がる。新たな秩序を作り出しているのだから、その発明や発見はネゲントロピーとして機能している。これは充分に文化と呼べるものだ。

さて、純粋消費者と創作物としての文化の関わりは、単に金を媒介とした商取引に過ぎない。文化に対して資金を提供しているという存在感はあるが、内容に対してコミットするものではない。この点が重要である。純粋消費者である客は文化を語るな。黙って買い集めていればそれでよろしい。しばしばここを勘違いして、売れているものはより多くの人から支持されているから良いものだと、純粋消費者的な価値観から作品を評価する者がいるが、とんだ勘違いであることが理解いただけたであろうか。
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ただ地下アイドルなどのマニアックな「推し」文化は、世の中ですでに定評があって流行っているモノに飛びつくのではなく、自分が本当に好きなものに金をつぎ込んで支えるという意味では、パトロンに近い要素がある。これは情報社会的な価値観としては、良い方向であると言えるだろう。確かに日本の「オタク文化」は、マニアが買い支えて出来上がったものであり、だからこそ世界に発信する文化となっている。口先で文化を語るなら、しっかり金を出してパトロンになれ。


(22/03/18)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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