お上の使い方





「上に政策あれば、下に対策あり」というのは有名な中国のことわざだが、歴史的に中国の影響を大きく受けて文明を築いた東アジアの国々では多かれ少なかれその傾向は見られる。その中で日本は比較的組織へのロイヤリティーが高い方だが、それでも「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」などのことわざに代表されるように、庶民たちは昔から「お上」目が届かないところでは、やりたい放題勝手気ままにやってきた。

それが典型的に見られたのは江戸時代である。江戸時代においては、幕府の行政機構は極めて少人数であり、とても町人を管理することはできなかった。そこで、時々「一罰百戎」で見せしめのための「生贄」の取り締まりこそするものの、基本的には町人の自治に任せていた。町人もそこはそこ、どのくらいまでなら見て見ぬ範囲でお目こぼしになるかよくわかっていたので、阿吽の呼吸が成り立っていた。

このように庶民というものは、基本的に権力に対して心をなびかせることはないものである。それでも人々が権力に対しある程度の従順さを示すのは、その便利でおいしいご利益を利用したいからである。お上の権威にすがるふりをしているだけであり、本質的に尊敬しているわけではない。しかしお上の方もみんながヘイコラへり下ってくれるのに慣れてしまうと、なにか自分が本当に偉いような気分になってしまいがちである。それはとんだ勘違である。

それでいい気になって偉そうな顔をし過ぎると、庶民からは覿面にそっぽを向かれるぞ。上から目線でもちやほやされているのは、バラ撒き等で利用し甲斐があるから、おべっか遣いでヨイショしているだけ。本当に尊敬しているわけでも、畏怖しているわけでもなんでもない。まあ、公務員の中でも警察官は、下手に楯突くと「公務執行妨害」でしょっ引かれる可能性もあるのでちょっと警戒するが、あとの公務員は大したことはない。

さて、凡人が「お上」の仕事につくと、ここでおかしなことが起きる。最初から利権にありつきたくてその仕事を選ぶ高級官僚も困りものだが、彼等はいわば確信犯なので、バラ撒きや許認可に食いついてくる「下々」の者達と、同床異夢ながら利益共同体を作ってしまう。その構造もわかった上で、自分達の天下りや許認可利権の温床としている。これはこれで問題なのだが、金の切れ目が縁の切れ目なことは重々承知しているので、決してボロが出るような失敗はしないし、自分達の利益にならないことはやらない。

その一方で「凡人」の役人は、バラ撒きや利権を期待して「下々」の者達が繰り広げる忖度やおべっかに素直に乗っかってしまい、本当に大事にされていると勘違いし始めるのだ。こうなると利用する庶民のほうからすると、極めて操作しやすくなる。それとともに、お世辞扱いも一層エスカレートする。高級官僚でも許認可官庁でないところは、意外とこの手が効いたりする。かつて大蔵省の高級官僚に対し、金融機関のMOF担がノーパンしゃぶしゃぶなど風俗接待を行って手玉にとってしまった事件など、そのいい例だろう。

小役人という言葉があるが、結局官僚の多くはそういう発想をする人種なのだ。「世のため人のため」を考えているのはあくまでもタテマエであって、ホンネでは「自分達の権益の拡大と自分の天下り」のことしか考えていない。たまにトチ狂ったように、本気で世のため人のための仕事をしてしまう官僚もいるにはいる。しかしそういう人は本流ではない例外的な存在だ。それが証拠に、こういう人は絶対に出世できないし、おいしい天下りの椅子も与えてもらえない。

お上とは所詮はそんなものなのだ。結果的にバラ撒き補助金のご利益に預かれる人もいるだろう。コロナ対策費のバラ撒きなど、元から開店休業状態だった店が、店をやるより売上が立ったなどという話もけっこう聞く。しかし、所詮はあぶく銭である。お上に期待しおて従順にしても、結局は儲かる話にはならない。せいぜい面従腹背でニコニコしておいて、お上のことなどは無視してしまうのが一番いい。そもそも官僚機構ももう長続きできないフェーズに入ってしまったのだから。


(22/03/25)

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