鼻つまみの「意識高い系」





「意識高い系」という言葉がある特殊な「鼻持ちならないヤツ」を指し示す言葉として共通理解されるようになったのは、2010年代に入って少し経った頃からであろうか。虚栄心が強く見栄を張り精一杯背伸びをしてほらを吹くタイプの人間を、若い世代の多くの人たちが「空回りするアホなヤツ」と見下す風潮を見事に言い当てた言葉として一気に定着した。若者の中にもこういうタイプはいくらか存在するのだが、非常に忌み嫌われるようになったからだ。

これが流行って定着した理由、すなわちこういうタイプが嫌われるようになった理由としては、大きく二つの要因が挙げられるだろう。一番目にあげられるもっとも大きな理由。それは世の中が基本的に豊かになり、貧しかった時代のように見栄を張って自分を大きく見せる理由がなくなったことである。団塊世代など日本がまだ貧しい時代に人格形成した世代は、とにかく自分がもっと格上のクラスに属することを示したがった。

もちろんそのエネルギーがバネとなって成功をおさめた人もかなりいるとは思うものの、この世代の多くは、実はまだ貧しいままなのだが他人からはそう思われたくないと、必要以上に見栄を張る傾向があった。実はストーリーを追い切れないのだが、映画は吹き替え版ではなく、わかりにくくても字幕版を敢て見て「自分は英語がわかるインテリなんだ」という顔をしたがっていたことなど、その背伸びの典型といえるだろう。

二番目の理由としては、見栄っ張りの底の浅さがすぐにバレてしまう世の中になったことが挙げられる。情報社会となって、世の中の情報化が進んだ。誰でも一次情報に当たって、真実を知ることができるようになった。リアルだけの時代ならば、相手の知識以上の知識と理屈で煙に巻けば、かなりの相手は誤魔化せた。だから、フェイクであろうと偉そうなことをいっていれば、それなりに経緯を払ってもらえた。新聞社の論調がその典型であろう。

しかし情報社会ではそれまでの社会とは違って、盛って見せても「底の浅さ」や「ニセモノ感」が、すぐバレてしまうようになった。リテラシーのある人なら、疑問に思ったときに自分で検証してもすぐにわかる。それだけでなく、若者の間には「こういうフェイクで盛るヤツはみんなの敵だ」という共通認識がある以上、ある程度以上のリテラシーを持つエバンジェリストが、「盛って見栄を張る」ヤツの化けの皮を剥がして見せてくれたりするようにもなっている。

このような時代背景から、「意識高い系」は若者の間ではいけすかないフェイク野郎の代名詞として嫌悪されるようになった。今見たようにこの傾向が定着した背景には、日本が右肩上がりの高度成長社会からそこそこ豊かで変化の少ない安定社会になったことと、世の中の情報社会化が進み情報の格差がなくなってきたため、「高邁な知識」を振りかざしてマウントを取ることができなくなってしまったことがある。まさにこれが21世紀の日本社会を象徴する現象であることがわかる。

00年代には、ネットバブルや市場主義化の波に乗り、「系」ではなく学生時代に起業したりボランティアをやったりする本当に「意識の高い」学生が現れ、特に就職活動の場などで着目されるようになった。この段階でこういう活動をできた学生は、本当に能力が高くクリエイティブなセンスを持っていたので、高く評価された。当時の若者の中では、こういう成功者は憧れやロールモデルではあっても、決して忌避の対象ではなかった。すなわち、まだポジティブな意味を持っていた。

これが10年ほどの間に極めてネガティブなイメージの言葉になってしまったのには理由がある。どの時代でも見栄っ張りや成り上がり志向の人間はいる。そして少なくなったとはいえ、00年代の若者の中にもそういう人達はいた。そういう連中がそういう「リア充」な若者にあこがれ、それをきどって見栄を張りだした。意味なくスタバでMacBookを拡げている(でもやっているのはネトゲ)ような輩が目立ちだしたのもこの頃である。

学生起業家などの成功者は、同世代からまさに「リア充」などと揶揄される面もあるが、あんまりストレートに批判すると単に自分のコンプレックスの発露みたいになってしまう。これでは「隠れ背伸び派」であることを自白しているようなものなので、それは避けたいという自制心が働く。かくしてこういう成功者に対しては、まあ「いてもいいんじゃないの」ぐらいの距離を置いた接し方をし、自分とは別の世界に住んでいる人間としてシカトすることがほとんどである。

逆にこういう時代においても見栄を張って鼻持ちならないヤツは、そもそも今の若者にとって一番大事な「空気を読む」ことが全くできていない。これが、彼等を許せない最大の理由である。空気を読めないヤツがコミュニティーに入ってくると、大切なコミュニティーが崩壊する危険がある。若者のコミュニティーを成り立たせている掟を理解しようともしないアスペなヤツ。「意識高い系」という言葉に込められた怨念には、そういうイメージが込められているのだ。

そういう意味では、「意識高い系」という言葉がネガティブワードとして流行した裏には、今の社会が「ほどほどに豊かだが、変化も少ない情報社会」になっているし、そこを生き抜いてゆくための掟としては排除すべき相手である、という認識が強く感じられる。これはこれで極めて正しい判断だし、若者は若者なりに今の時代を生きてゆかなくてはならない中から「生活の知恵」を感じ取っていることを思わせる。逆に、高度成長期のマインドのままで、今の時代を生きる知恵を持ち合わせていない中高年の方が、よほど危険といえるだろう。

(22/04/15)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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