エゴサーチしたがる人





どうやら自分が他人からどう思われているかが気になりすぎて、始終エゴサーチしている人がいるらしい。それで悪く書かれていると気分を害して、落ち込んで鬱になったり、あるいは逆に批判した相手に対してストーカーとなり誹謗中傷を繰り返したりする。それなら最初からエゴサーチなどしなければ気分を害することもないし、そっちの方がよほど平和でいいと思うのだが、なぜかこういう人はせずにはいらない。

とにかく彼等は他人からどう思われているかというのが、至上課題になっている。そう思ってみると世の中には、人の顔色が気になって仕方がない人がなんと多いことか。人からどう思われているか。悪く思われたり、嫌われたりしていないだろうか。そればかりが心配で、常に取り繕っていなくてはならない。なんだかわざわざ自分で悩みのタネをほじくり出しているような感じだが、彼等はやめられないのだ。

彼等はどうして他人の視線や評判が気になるのか。それは、彼等がそもそも自分というものを持っておらず自立できていないからである。自分が自立していれば、人が何と言おうと自分の信念を貫くことができる。自分がいいと思ったこと、やりたいと思ったことに、自信を持って取り組める。さらに自立していれば自分で肚をくくって責任が取ることができるので、人から何と言われようと自分の道を突き進める。

彼等は自立しておらず、自分の信念も欠けているからこそ、他人の視線に合わせてしか行動できない。それゆえ他人がどう見てどう言っているかが気になるのだ。いつも言っているように、財産か才能かどちらかがあれば、悠然と自分を確立することができる。もちろん、両方持っていれば最強である。これらの条件に恵まれている人は他人のことなど気にしていない。もちろん他人に迷惑をかけないようにという意味では気を遣うだろうが、結局は自分のやりたいことをやり遂げる。

しかし、そのどちらがなくても、自分に自信を持つことはできるし、自分の責任で決断することもできる。実際、世の中には財産や才能といった恵まれた環境がなくても、きっちりと自立し自己責任で行動できている人はけっこういる。自立・自己責任という能力を発揮するには、事前の勉強も努力も意味がない。そういうことで養える能力ではないからだ。ひとえに蛮勇を振るえるかどうかだけにかかっている。

勉強と努力だけで成り上がった秀才エリートは、この蛮勇から一番遠いところにいる存在である。そういう人間が評価され、それなりの社会的ポジションを与えられるようになってしまったことが間違いなのだ。こういうタイプの人間は、基本的に甘え・無責任で自分というものを持っていない。だからこそ組織にすがって、その中でウマく這い上がることで生きて行きたがるし、その手段としていい学校に入って、良く勉強するのだ。

勉強や努力は、基本的にロールモデルをみつけてそのマネをすることに他ならない。いくらそこに力を入れたところで、自分の人間力を磨くことには繋がらない。そうである以上、自分といいうものを持てないのはいわば当然である。そして自分で考えて自分の思うようにやるのではなく、誰か優れた先人のマネをするのが基本になっているからこそ、他人から見て誰よりもマネがウマくできているかが気になってしまうのだ。

他人が悪口を言おうと後ろ指をさそうと、意に介せず自分の意志を貫ける。これがAIが進んだ情報社会で、人間が生きてゆくためのカギである。ある意味、マインドシェアという視点から考えれば、他人がアンチになるのは自分の実力が評価されているからに他ならない。気になる上にライバルとして手強く思っているからこそ、罵詈雑言を浴びせるのだ。雑魚であれば、そもそもシカトされるだけで悪口さえ言ってもらえない。

実際、実力のある人ほど他人の評判など気にしない。悪口を言われても無視するし、褒められたからといって有頂天にならない。まさにそれこそが自分の道を行くことなのだ。他人の視線や発言内容に一喜一憂しても、無駄にエネルギーを浪費するだけである。まあ、自分を持たないまま大人になって、もういい歳をしている人も多いだろう。そういう人に向かって、今から自分を持ちなさいといっても始まらない。しかし、自分の選んだ生き方が最早時代に合わないものになってしまったことだけは心に留めて置くべきだろう。

(22/04/22)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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