左翼の権威主義





左翼・リベラルは自分達が権威主義・全体主義にどっぷりハマって、自分達が独裁的な権力を握るんだという理想しか考えていない。それが高じて、多様性と寛容を重んじる政治形態が存在することすら目に入らなくなっている。このため他の政治勢力も同様に権威主義・全体主義的な発想で、独裁的な権力を握りたがっていると思ってしまう。だからこそ、是か非かの二元論的な対立の構図でしか物事を捉えられなくなってしまうのだ。

日本の政治を見ても、自民党の行動様式を分析すれば、保守合同というそのルーツを考えればわかるように、多様な主義主張を持つ人々が員数合わせで野合したことが元になっており、何事についても落としどころは玉虫色の見解になってしまう。そこを官僚に見透かされて、霞が関の都合のいいシナリオを押し込まれてしまうところこそ最大の問題である。左派系の野党が言うような「独裁」の正反対である。

そもそも保守は、本来の意味でのリベラルである。自由主義・市場経済を目指している以上、多様性こそ競争原理の根源であることをよく理解しているからだ。だからこそ競争に任せれば直接相手を攻撃せずとも、敵対勢力を一掃できることを知っている。すなわち相手側が競争力のないものであれば、ひとまず市場原理にゆだねてしまえば誰も支持しないことがあからさまになる。そうすれば兵糧攻めで手を汚さずとも相手に勝てるのだ。

左翼・リベラルは、一見弱者の味方のような顔をしがちである。しかし弱者の足元を見透かし、強い自分達の権力にへりくだらなくては生きていかれないだろうということを前提に、員数合わせの手段として手を差し伸べているに過ぎない。だからこそ自分たちに付き従う弱者は、自分達の権威に従う「愛いヤツ」ということになる。せいぜい、それなりにペットとして飼い殺しにされるのが関の山だ。その一方で、多様性を主張する弱者は敵として攻撃対象となる。

これを見てもわかるように、彼等は弱者全体に手を差し伸べているのではない。左翼・リベラルは、自分達の意見だけが正しいとされる権威主義・全体主義的な権力を樹立することが目的なのだ。そして弱者に差し伸べる手は、その権力を確立するための手段に過ぎない。手段と目的を見誤ってはいけない。政策に掲げる甘言は、それに同調して一緒にお神輿を担いでくれる相手か、それとも多様な価値観を掲げて全体主義の画一性に異を唱える相手なのかを見分けるための「踏み絵」に過ぎない。

過去の社会主義国、共産主義国といった全体主義国の歴史を見ると、政権奪取の初期においては員数合わせのために「弱者の味方だ」といって騙して支持者を集めるが、政権基盤が固まると、一気にそういう「異分子」を追放したり粛清したりする事例ばかりである。それはソビエト連邦においても中華人民共和国においても北朝鮮においても、その建国・創世記にみられる、共産主義国にはつきものの現象である。弱者の味方ぶるのはあくまでも口先だけで、対立すればすぐに粛清されてしまう。

これは左翼特有の、「理念が先にある」のではなく「権力欲が先にある」ことから引き起こされている。もちろん、思想信条の自由が認められる以上、権威主義・全体主義的な政治主張を行うことも全く自由である。しかし、それを受け入れるかどうかは相手が決めることであって、暴力で脅して屈服・隷従させることで自分の意見を押し通すのは、テロでしかない。逆にテロリストが、左翼・リベラルに同調しやすいのも、こういう暴力肯定的な側面が色濃く表出されているからに他ならない。

なぜ左翼思想の中に、テロに走る要素が含有されているのか。それは本当に自分達の主義主張が幅広く支持される可能性に対し、当人自身も懐疑に思っているからに他ならない。甘言で釣るのも同じである。ストレートな主張ではボリュームゾーンを取れないことがわかっているからこそ、だまし討ちにするのだ。ポピュリズムで権力を握り、権力を握った後は自分達を支持してくれた人々を切り捨てる。これは基本的に全体主義者の常套手段である。

そう考えてゆくと、原因と結果の関係がよくわかってくる。左翼・リベラルというのは、あくまでも体裁を取り繕うための手段である。これはエンゲルスがマルクスの思想を換骨奪胎して単なるアジテーションにしてしまった時から一貫している。そうであるなら、左翼・リベラルだから権威主義・全体主義に走るのではなく、権威主義者・全体主義者だから左翼・リベラル思想で自分達を正当化しようとするという構造になっていることが容易に理解できる。左翼とはそもそも権威主義なのだ。これを忘れてはいけない。

(22/04/29)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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