お国のために死ぬ名誉





昔からの持論だが「お国のために死ぬ以外に能がない人間」というのは、日本人にはけっこう多い。だからこそ、それを犬死としないで英霊として祀るための靖国神社が必要になるのだ。体力にだけは自信がある社畜モーレツ社員が、ブラックをものともせず死に物狂いで会社のために身を粉にして働いた挙句、過労死でポックリ行ってしまう事例は今も絶えない。本人は「自分はこれしかできないから」とばかりに一生懸命やっているのだ。これを無駄死ににしていいと誰が言えるだろうか。

こういうタイプは、体力だけには過剰な自信があるのも特徴だが、マジメで自分を持っていない人間という特徴もある。明治以降の、文明開化で追いつき追い越せを目指した教育の効果もあり、世の中的にはこれが数的には一番多い。一方体力には自身がないのだが、性格的にはマジメで自分を持っていないというタイプという人も多くなっている。こっちは、過労死ではなくメンヘラになり鬱が講じて自殺してしまったりする。いずれにしろ言われたことをその通りマジメにこなすしかできない人達だ。

しかし、情報社会となった21世紀の現代では、言われたことを言われた通り粛々とこなすのならコンピュータシステムの方がよほど速くて正確だ。人間がやる以上、一定の比率でミスや失敗が付きまとってしまうのは仕方がない。そういう意味では、効率という面から考えると、このような人達はっきり言ってコンピュータシステム以下のパフォーマンスである。もっとも産業社会まで社会のように「人海戦術」が求められる領域がある社会においては、それなりに使い手と存在意義があったのも確かだ。

しかし知的労働集約作業までもがAIにより機械化されてしまう情報社会においては、こういう「言われた通りにしかできない人間」が活躍できる場は限られてしまう。最後の砦であった事務管理部門における知的労働集約作業も、機械によって置き換えられるようになってしまった。こうなると、組織内では「言われたことをその通りマジメにこなすしかできない人達」には居場所がなくなる。日本の労働政策は極端に労働者が有利にできているので、既存の雇用者の首はさておき、新規の雇用者が生まれないのは当然である。

さて、人類の歴史を見てゆくと、何度も産業構造の転換を経てきた。そしてそれをうまく潜り抜けて新しい社会を構築してきたことがわかる。産業構造の転換が起きる度に「人々の働き口がなくなる」と懸念され、産業革命時のラッダイト運動のような暴力的テロさえ起きることがあった。しかし、産業構造の変化とともに結果的に新しい雇用形態が生まれ、新規に就職する人やその転換に対応できる人は、うまい具合に対応できてきた。今回の情報社会への以降においても、同様の変化が起きるのは間違いない。

すなわち「コンピュータシステムに使われて、そのマンマシンインタフェースの末端の部分を担う」作業である。最終的に産業というかビジネスというか経済活動においては、最終消費者の人間がいて、その人が金を払わない限りバリューチェーンは完結しない。いわば消費税を転嫁できない最終消費者の財布こそ、経済活動の源泉である。ということはラストワンマイルは、必ず人への手渡しになる。この部分は極めて個々の事情で複雑・多様化するので、機械化するより人間がやった方が効率がいい。

だからこそ、基本的なトランザクションはコンピュータシステムで処理するにしろ、人間が行うべき作業は残る。アマゾンやウーバーイーツの配達などはそのいい例だろう。まさに究極の人手間でやった方が効率がいい部分だけを人間労働で対応し、その他の部分は全てコンピュータシステムによるオンライン処理でこなしている。しかしこれには問題がある。いかにも「機械に使われている」ことがありありとしてしまい、「働き甲斐」が見えにくいのだ。

今までは、末端での情報処理と末端での肉体労働とを一体化して作業担当者が担っていた。 コンビニの店員や、宅配便のセールスドライバーなどが典型的な例である。商品や売り上げの管理はシステムが行うが、営業活動や顧客対応のサポートといった非定型的な業務も含めて末端の対人作業にまとめて対応していた。その分、大変かもしれないが「ノルマを果たして業績を上げる」など、それなりに張り合いとなる結果を示すことができ、それをモチベーションとすることもできた。

労働環境のブラックさがさほど問題にならなかった昭和時代には、扱い高に応じて報酬が上がる制度を利用し、休日返上、残業しまくりで荷物の配達を行い、短期間で背負っていた多額の借金を返済した豪傑の武勇伝などもよく聞かれた。ある種、自分の判断でリスクを取って結果を得ることができる。これならば、受け身でしか仕事ができない人にも「やりがい」をビルトインすることができた。

しかし、その領域までシステム側でこなすようになってしまった以上、業務そのものの中に「やりがい」をインクルードすることは難しい。こうなると残されたやり方は、「靖国神社」しかない。お国のために死ぬしか能のない人間を、死後英霊として祀ることで、死ぬことを生きがいに昇華するシステムだ。これからの時代における「コンピュータシステムに使われるしか生きてゆけない人間」達を救うには、このような仕組みを制度的に社会に構築することが必須である。

これなくして、単にコンピュータに使われる人間だけが増えてしまえば、不満が蓄積しテロに訴える人も出てくるであろう。マジメに言われたことをきちんとやるしか能のない人間が、きちんとそれをこなしたことを「お国のために死んだ神」として社会的に崇める。これをきちんとやることが、これからの情報社会を実りあるものとする上では極めて重要なのだ。とはいえ、個人的にはこれはマイコン革命を経てパソコンが実用化した1980年代から、一貫して主張していることなのだが。

(22/05/06)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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