お子ちゃま左翼





世の中には、自分が「見たくないもの」や「気に食わないもの」が目に入ったと言って文句を付ける人がいる。果ては、そういうものは「公益に反する」ので公権力により禁止すべきだとさえ主張する。そんなものは、そもそも自分が見なければいいだけのものである。ほとんどの場合、そういう手合いのコンテンツは、自分からプル型でアクセスしなくては絶対に見れないようになっているし、「成人向け」のようにゾーニングが行われていることも多い。

それらの事象は義務教育の学校の授業のように、プッシュ型で好むと好まざるとにかかわらず強制的に見せつけられるものではないのだ。実はこういう「強制力」を持っているものの方が世間的には少ない。ほとんどのものが、当人の自主的な選択によって見るか見ないかがど選べるようになっている。告知広告はプッシュ型でないと意味がないのだが、社会的にプッシュ型にするためには多くのコストがかかるため、広告主は多額の媒体費を負担せざるを得ないことがそれを示している。

映画ならそもそも入場しなければいいし、テレビの番組でもスイッチを切ってしまえばいい。新聞や雑誌といったプリントメディアに至っては、わざわざ手に取って開いて見ない限りは全く目に触れることはない。さらに昔は「ビニ本」などどいう買わない限り立ち読みすらできない売り方もあった。ましてやインターネットでは強制力は全くない。だからこそ、インターネットビジネスは自社媒体だけではプッシュ型の告知ができず、告知部分をプッシュ力の強いテレビスポットやOOHに頼らなくてはならいのだ。

そのテレビスポットやOOHだって、強制力があるワケではない。気に食わないCMが出てきても、リモコンでチャンネルを変えるなり電源を切るなりすれば、たちどころに消え失せる。街頭の看板やポスターも、目をそらせば一瞬で視野の外になってしまう。人間の目は魚や鳥のように360゜を見渡せるようにはできていない。180゜も見切れない構造だ。こういう構造的問題がつきまとうからこそ、デザイナーは看板やポスターのデザインに頭をひねって、少しでも興味を持って注目してもらえるように頑張っている。

今や情報社会となり、莫大な情報が毎秒飛び交っている世の中である。しかしそれらの情報は、自分からアクセスしない限り目には入らない。言い換えれば、自分が「見ない」という選択をする主体性さえあれば見ないで済むものなのだ。世の中に流通している情報のほとんどは見たくなければ見えないものということを忘れてはいけない。そしてその選択は当人の自由に任されている。よしんば偶然目に入ったとしても、無視してしまえばいつか忘れて気にならなくなる。

このように自分の意志で自分の行動をコントロールできるのが、自我を持った大人である。自分にとって見たい情報のみを取り入れ、見たくない情報をフィルタリングできる。これはすなわち「社会性」を持った行動ができるということである。それができないのは親離れできないガキだけだ。図体だけは一人前の大人に見えても、精神年齢は子供のまま。自分自身を自律的にコントロールできず、他人だよりになってしまうというのはある種の発達障害でもある。

そう考えると、左翼やリベラルにこういう主張をする人が多いこともうなずける。左翼やリベラルは、いい歳をして自我を確立できていない「大きなお子ちゃま」である。だからこそ、権威や権力を求め、それにすがって生きようとする。自分で判断してコントロールできないから、権力に判断してもらいたがる。これは何でもパパ・ママに頼ってしまう幼児そのものの行動様式である。自分で考え・判断して、自分の力で何を受け入れて何を拒絶するかという選択・行動ができないのだ。

自分で自分を律することができないという意味では依存症の患者と同じだ。依存症も、社会的に大人になれていない「自分で我慢ができない」という発達障害の一種である。ガキに大袋の菓子を与えると、「今日はこれだけ、明日はこれだけ」と計画的に食べることができず、食べ始めると一袋全部を食べきってしまう。それどころか、食べたらずにもう一袋欲しがって駄々をこねる。これと同じである、やっちゃいけないことは、自分で我慢してやらなくなってはじめて大人になれる。

それを我慢することができずにどんなにやめようとしてもやってしまうから、誰かに見張って欲しいということになる。その分、公権力で規制したり禁止したりして欲しがる。先頃成人年齢が20歳から18歳に引き下げられて話題となったが、「子供」が未成年者のように保護されるのは、充分な責任能力がないので全てを自己判断にしない代わりに、保護者が面倒を見るべきという考え方に基づいている。そういう意味では、自分で自分を律することのできない左翼やリベラルは、未成年者と同じように権力の保護の下でその未熟な責任能力に応じた行動をとりたがっているのだ。

それならそれで答えは簡単だ。まず世の中の人々を、「責任が取れる人」と「責任が取れない人(あるいは、責任を取るのがイヤな人)」の二つに分ける。前者の人達は、自分で判断して自己責任で行動すればいい。後者の人達は、保護観察や成年後見制度のように、面倒をみてくれる人を付け、その「指導」の下で行動するようにすればいい。左翼・リベラルな人達が望んでいるのはこういうことだろうし、それは現行の法制度の下でも充分に実現可能である。これなら平和共存ができるだろう。いつも引き合いに出す筒井康隆氏の怪作「90年安保の全学連」ではないが、絶滅危惧種はワシントン条約で保護するべきなのだ。

(22/05/13)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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