分かり合えるという甘え





ロシアのウクライナ侵攻でかなり決定的になったが、この10年間ほどの世界情勢の動向は、世界が一つになって平和に理解しあえるというのが、単なる妄想のおとぎ話であることに誰もが気が付きだしたということであろう。ブレクジットもそうだし、アメリカが代表的だが、主要国の中で起こっている「Yes or No」の二元論化もそうだし。これはある意味、社会の情報化が進むことで、かつての産業社会のような「ホンネとタテマエの使いわけ」が難しくなってきたことに起因する。

人間とはそもそもワガママな生き物である。そもそも地球の歴史上数多く存在した類人猿の中でも、ホモサピエンスが他の種を圧倒して勝ち残り、地球上でかつてなかったほど繁栄を栄華を極められたのは、この暴力的なまでの独善性の賜物である。DNAにそれがビルトインされているのが、ホモサピエンスなのだ。生物的には集団生活をする類人猿なので協力できるところでは協力するが、対立すると暴力的に解決しようという習性がある。

もちろん利害が一致して都合のいい間は容易に組むことができる。それもまたホモサピエンスの特徴である。ある目的に対してなら自在に合従連衡ができるというのも、生物としての人間の強みだ。だからといってそれは心の底から信じ合っているわけではない。あくまでも目的実現のための手段であり、それぞれ「目的の達成」という果実を得るために同床異夢の状態で手を組んでいるに過ぎない。

この同床異夢は百人百様である。それゆえ人間社会は構成員の数が多くなればなるほど、所詮分かり合うことなどできないものなのだ。文明が進歩するとともに、コミュニティーは巨大化し、人間同士の関係性はどんどん複雑化した。実は直接的な利害が対立している人間も社会の中には多く含まれるようになる。さらには一人の人間の中でも利害相反な関係が生まれるようにもなる。そこかしこに一触即発の危機を孕むリスクが存在するようになる。

それでもなんとかうまく行っていたのは、かつては面従腹背で表面だけを取り繕っておけば何とかなったからだ。腹の底で何を思っているかを他人から問われることはなかった。だが、社会の情報化が進んだことにより、陰で何を言っているのかも調べればすぐにわかるようになってしまった。もはやフェイクがバレる時代である。そんなごまかしは通用しない。21世紀の情報社会においては、20世紀の産業社会の時代とは違った、新しい社会ルールが求められている。

イジメや差別も、それが人間の根源的な本性に根差している以上、いくら「良くないことだ」といっても、根絶されることはない。かえって地下に潜ってしまい、対処のしようがないたちの悪いものになってしまう。20世紀においては、「イジメは悪いことだからやめましょう」とタテマエの部分でコンセンサスを作り、少なくとも目に見える部分から排除することで解決した気になっていた。実は裏側ではさらにひどいいじめが起こっていたとしてもだ。

だが、情報社会においてはリアルもヴァーチャルもフェイクもない。全て情報という意味では等価である。目に見える部分だけ「改善」しても、決して解決には繋がらないことが誰の目にも見えてしまう。だから、すでに何度も述べているように、「いじめや差別は人類の性」であることを前提に、それは必ず起こるものだが、問題の発生を未然に防ぎ、もし起こったとしてもその被害を最小限に納めるにはどうしたらいいかを考えなくては解決にはならない。

「世界は一つ」などとお気楽なことをのたまわってきた国際平和も同じである。呉越同舟をバラ撒きで引き留めている間はさておき、みんなが乗りかかった「舟」が大きくなればなるほど、細かい対立点は増大し深刻になる。それは社会の情報化が進み誤魔化しがきかなくなった21世紀になって先鋭化した。今までになかったカタチの対立が、地球上のあちこちで爆発しコンフリクトを起こしている。もはや偽善の「みんな仲良く」ではなく、それぞれのエゴを押し通しあっても互いに迷惑を蒙らない方法を考えなくては長続きしない。

情報社会は融合ではなく、分断の時代である。それは今までのインターネットの歴史が示している。古くはパソコン通信に始まり、インターネット上の掲示板、blog、UGMと、すでに30年近くネットワーク社会に関する「社会実験」は行われてきた。そこでわかったことは、ネットワーク社会においては、人々は地域などの物理的なコミュニティーではなく、空間を越えて嗜好や信条の類似性で結びついたコミュニティーを作り、そこに対して帰属意識を持つということである。

そしてネットワーク上のコミュニティーでは、物理的なコミュニティーと違なり互いに偶然顔を合わすことはあり得ない。自分の聞きたくない意見は聞かずに済むし、会いたくない相手とは会わずに済む。SNSなどのサービスにおいては、これを担保するための「ミュート」や「ブロック」などの機能がほぼどのサービスでも実装されていることが、この重要性を示している。ウザいヤツが世界のどこかにいても、自分の視野に入ってこなければ誰も気にならない。

社会が情報化したのなら、社会の掟も情報化を前提にしたものに変えるべきである。産業社会において消費市場をリードしたのはショートヘッドのマスだった。産業社会においては「大きさ」や「規模」がなによりモノをいったからだ。しかし、情報社会においては多数のロングテールがそれに変わった。輿論においても同じである。数の多いのが正しいのではなく、百人百様の真実があるのが情報社会である。分かり合わなくても、互いに触れ合わずバラバラに生きればいい。これこそが情報社会を生き抜く基本条件なのだ。

(22/05/20)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる