社会運動の欺瞞





社会運動に参加している人を見ていると、中には確かに正義感から純粋な心意気に燃えている人もいるのだが、その多くは自身に何か病的なところがあって、社会を救う前に自分自身を何とかした方がいいんじゃないかとつい思ってしまう。それ以上にそもそも自分自身も救えていない人が、社会を救えるわけがない。社会を救うなどという大それた願望は、普通の人間にはとても手に負えないものである。ましてや病んだ人間をや、である。

このような人達は、社会の問題を何とかしようとしているのではなく、自分自身を自力で救うことができないので、先に社会の方を何とかして、それに頼って自分の苦境も何とかしたいと願っているのだ。社会を自分の望むようなスタイルにして、その御裾分けに預かって自分も救われたいというのが、「弱者」出身の社会運動家の典型的なスタイルである。そして左派・リベラルの支持者の多くがこういう人達だ。

しかし、マズローの欲望五段階説ではないが、そもそも自分の日々の生活もままならない人が、他人の幸せを考えられる余裕があるワケがない。自分で自分が救えない人達は、満たされているのが生活生理欲求と安全確保欲求のレベルであり、それ以上の自我の確立に伴う認知評価欲求、自己尊厳欲求、自己実現欲求のところまで達していない。本当の社会運動は、社会全体を自己尊厳欲求、自己実現欲求が求められるレベルまで高めようというものであるにもかかわらず、だ。

本当に社会を良くしたいと思うのなら、まず自分が幸せになって、生活に余裕ができたらその分け前で他人を救う必要がある。自分が「あれも欲しい、これも欲しい」という欲求不満の状態では、どう考えても本当に社会のことを考える余裕などでてこない。これが本来の姿である。左翼やリベラルが弱者の味方のような顔をしても、困っている人達のことを本当には考えず、結局は自分たちに都合がいいように利用しているだけというのは、これが原因になっている。

ここで重要なのは、自分が幸せになるのは、あくまでも自分の力によるものという点である。幸せは誰かが恵んでくれたり与えてくれたりするものではない。自助努力によってしか得られない。金や富は「干し芋のリスト」ではないが、誰かが突然与えてくれることもある。しかし、それは幸せへのパスポートにはならない。賢い人はある程度金や富を手に入れたところでそれに気付く。しかし、それに気付かない限り「もっと恵んでくれ」という無間地獄へのパスポートでしかない。

まず才能や財産があるなど基本的に余裕がある人の中から、自力で幸せになった人が登場する。そうなったらその人が、自分が得た余裕の中から提供できるものを提供することにより、次に幸せになる人を救う。「誰かが恵んでくれ」と恵みを求める方から声を上げるのではなく、施す側から次に幸せになれるひとに手を差し伸べるのだ。これが連鎖することでグッドサイクルを生み出し、社会全体が幸せになってゆく。

時間はかかってしまうものの、これ以外に社会全体みんなが幸せになれる方法はない。それは確実にできるところから時間差で幸せな人を増やしていかない限り、いまあるエサを誰が獲るのかという「ゼロサムゲーム」になってしまうからだ。ゼロサムゲームの結末は、結局のところエントロピーの極大化、つまりみんな不幸になって平等化するというものでしかない。これこそ社会主義・共産主義の行き着くところとして、20世紀の壮大な社会実験の結果が示している。

共産主義とは、みんなが不幸になって傷を舐め合うシステム以外の何物でもない。だれも幸せな人がいなくなれば、みんな平等だ。しかしその裏で、権力志向の強い指導者層だけは、「赤い貴族」となって、ほとんどない社会の富を独占する。世の中の左派・リベラルが行う社会運動の問題点は、全て突き詰めればここにある。自分自身の力で自分自身を救えない人が何人集まったところで、社会を救うことなどできないのだ。

社会を救うには、自分自身の力で自分を救えた人が、その余ったエネルギーを他人のために振り分けるしか道はない。その第一歩は、今の自分で「足るを知る」ことから始まる。「足るを知る」ことで、幸せとは何かは見えてくる。「あれも欲しい、これも欲しい」という煩悩に捉われている間は、幸せには永遠に手が届かない。自分が弱者ぶっている間は、世の中は何も変わらないし、自分も救われることはない。自分が悟って、自分を救う。これができなくては何も始まらないのだ。

(22/06/03)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる