アジアの風流





もはや世紀末もラストコーナーを回り切ってフィニッシュに入っているというのに、またぞろ、求められる人間像の話題が良く出てくる。こういう教育制度、こういう人間形成の環境で、未来は大丈夫なのだろうか、というご意見である。たしかに日本の教育制度はよく指摘されるように、高級官僚に代表される、画一的な発想・行動をする人材を生み出すことに特化したシステムだった。それは、御説ごもっともだ。だからこそすでに破綻しているわけだし、学校の崩壊が現実のものとなっている。これに対して、教育改革をしなくては日本の未来はない、というような意見を述べる人がよくあるが、よく考えれば笑止千万だ。そもそも、教育とは画一的な人間を生み出すシステムなのだから、それをどうこういじったところで、教育制度をやめない限り、抜本的な解決にはなりようがない。

現状の官僚制度から一番の利権を得て、そこにしがみついているのが官僚である以上、官僚自身が行政改革を考えられないのと同様、現状の教育にたずさわっている人間が、抜本的な教育改革を考えられるわけがない。これは、前にも触れたことのあるテーマだし、今回のメインではない。今回言いたいのは、教育制度がどうあろうと個性的な人間は育つし、そういう人間が出てくる確率は変わらないということだ。教育制度を変えれば、確かに「自分に個性がある気になるヤツ」は増えるかもしれない。しかしそれは、本質的な個性も持っていないのに、自分が個性的な気になって増長しているヤツを増やすだけのことだ。

いちばん大事なのは、本質的に、個性的な人間というのはそんなにたくさんいるわけではないということだ。真に個性的であるためには、類まれなオリジナリティー、クリエーティビティーを持ち、同時にそれをカタチにする表現力を持っていなくてはいけない。これははっきり言って希少な才能だ。みんなが持っているワケではない。そしてそういうヤツは、環境とはかかわりなく、個性的に育つものなのだ。一方、そういう才能が生み出したモノを消費する側には、特に個性はいらない。付和雷同でも、その製品やソフトを購入してくれればいいだけだからだ。ここをはきちがえている人があまりに多いが、それは、才能のあるヒトのモチベーションは、才能のあるヒトにしかわからないからだろう。

すなわち、個性とは持って生まれたセンスや能力に他ならない。ある分野で能力がない人間は、いかに教育でフォローしてもはじまらない。個性を教育でどうこうしようとしても意味がない理由がここにある。世の中、一般名詞としての弱者は存在いしないことは前にも論じた。しかし、個別の領域を限れば、センス弱者、能力弱者は存在する。これはシビアーだが、どうしようもない事実。この個人差は、ヒトの顔が一人一人違っていて、個人を識別できるようなモノと思えばいい。たとえば音痴は、どこまでいっても音痴であって、努力すれば並にはなるかもしれないが、それが天才的音感にまで至ることはありえない。そんな努力は無駄というもの。音痴でも、サッカーが天才的にうまければ、そっちで努力すべきだ。

もともと、ある領域で個性的で天才的な能力を持っている人など、数が限られている。天才は天才としての生きかた。凡人は凡人としての生きかた。それは仕方がないではないか。とはいうものの、ヒトにはどっかいいところもあるだろう。好き嫌いはさておいて、そこを伸ばすしか手はない。しかし、世の中というのはシビアなもので、あることに能力のある人は結構いろんな領域でそこそこ高い能力を発揮する一方、だめな人はどんな領域でも能力がないってことも多い。そうだとしたなら、もうこれは、自分が生まれたときから与えられた使命の違いと思ってあきらめるしかないだろう。

このように能力は教育でどうにかなるものではない。個性というものが、能力に依存するものである以上、個性の問題は、教育の問題足りえない。能力のある人というのは、もともと能力を持って存在している。その能力をどう効率よく伸ばすかという問題なら、それはそれである種の「教育」足りうるかもしれない。しかしそれは公教育ではない。天才が天才の先達について修行する、徒弟制のようなものでしかないだろう。ダメな人間は、どう努力してもダメ。そんな教育は資源の無駄遣いだ。経営者が、そういう成果の見込めない投資を行い、経営資源を無駄遣いしたら、マーケットはそっぽを向きたちまち株価は暴落する。能力のない人間に教育するなんてことは、そのくらい意味のないことだ。

実は、日本には個性的な人材は多い。特に趣味に生きている領域では、日本には相当な連中がいる。いわゆるオタクな連中である。彼らのこだわりとパワーは、それこそ世界的なレベルで、一目置かれているものも多い。たとえば、ぼくも敬愛するキング・クリムゾンのロバート・フリップ氏といえば、彼自身相当マニアックなこだわりのアーティストとして知られているが、彼自身が驚くようなクリムゾンマニアは、世界の中でも、特に日本に多く生息している。いろいろ問題はあるが、日本がブート天国なのも、単にかつて著作権管理が甘かったということではなく、そういうマニアックな「資料」に目がない特殊ユーザがいっぱいいて、大きな市場になっていたということのほうが大きいだろう。

ということで、フリップ氏も、ゼップのペイジ氏も、日本に来るや新宿西口に足しげく通うことになるのである。これはきわめて個性的な文化としかいいようがないではないか。アニメもゲームも、そういうマニアックなパワーが活きていたからこそ、世界の文化になった。最近のようにビッグビジネスになってしまったのでは、もはや文化たり得ないのではないか。実際、エヴァでアニメは終わったという声も強い。それはさておき、そういう趣味な世界、おマニな世界に徹底してこだわることこそ、これからの日本の生きる道ではないかと思う。アジアの風流。それが日本に通じるのなら、それはそれで商売にもなるし、日本人が食っていくことはできるだろう。

実際、実用になるモノを創ることでは、他のアジア諸国の方が強い。しかし、そういう人達が生きがいを求める趣味な世界については、日本が圧倒的にリードしている。音楽、ゲーム、アニメといったソフトはよく知られているが、それだけではない。東アジアを代表するような銘品で、日本にしか残っていない文化財も多い。比較的戦乱巻き込まれることが少なかったこともその理由の一つだろうが、命よりそういう文化財を大事にするような気風もそれを助けただろう。日本の風流が、アジアを活性化する。趣味で個性を主張できれば、それがビジネスになる。クルマやコンピュータより、ホビーな世界やソフト。それを真剣に考えるべきときが来ているのではないだろうか。


(00/01/14)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる