リスクヘッジが掛けられない人達





リスクヘッジとはリスクから逃げることではない。リスクヘッジは、まず敢えてリスクを取る決断をした上でその負の影響力を最小限に抑える行為である。そういう意味では、何よりもまずハイリスク・ハイリターンに挑戦する肚があることが前提になる。その上でリスクヘッジを掛けるには、さらなるコストも決断も必要になる。そのコストを支払える資力と決断できる責任感のある人でないと、リスクヘッジは掛けられないのだ。

ある種の保険のようなモノで、チャンスへの投資以上にコストやリソースを投入することで、結果的にリスクに見舞われた場合の損失を小さくする行為である。ある意味リスクヘッジをかけられるということは、単に向こう見ずで裸一貫で可能性に賭けることより、もっと資金や責任を必要とすることである。その余裕があるからこそ、リスクの影響を最小限にとどめることができる、と言い換えることもできるだろう。

その資力も責任感もない人は、そもそもリスクに挑戦しようとは思わないし、リスクを取るかか取らないかの判断についても、だらだらと決断を先送りにしてしまう。しかしリスクというのは敢えて挑戦しなくても、向こう側から災難としてリスクの火の粉が降りかかってくることもある。その一方で、こういう人ほどリスクにあった時に誰かのせいにしたり、「お上」に救ってもらいたがったりする。

安物買い、保険に入らないなど、リスクを考えない生き方もある。それは最悪の場合、命を失ってもいいという判断である。本人がどれだけ意識的かはさておき、「金を掛けるくらいなら、イザという時には死んだ方がマシ」だという判断をしていることになる。結果的に何も起こらないこともあるし、その場合のほうが多いとは思うが、それは単に「運が良かった」だけである。まあ、安全確認をせずに道路に飛び出しても必ず交通事故になるわけではないようなものだ。

但しここで大事なことは、本人が意識していなくてもそれが一つの選択なり判断なりをしていることになることだ。自分の身に降りかかってくるのは、その選択や判断の結果なのである。しかし、お金がないからとか、ケチったからという理由で入らないでいたのに、いざ問題が起こると自分のその選択を棚に上げて、何とかしてくれと喚き散らす人がけっこういる。というか、ケチケチした人には、そういうタイプの方が多い。

がん保険とか地震保険とかは特約条項が複雑で、どういう場合に保険金が下りるのか条件が厳しいものも多く、そのリスクとメリットをちゃんと考えて、この保険に入っても無駄だから入らないという選択は大いにありうる。その場合、結果については自らの判断の責任という意識が明確になっている。しかし、そもそも最初から自分は無縁だと思って入らない人も、選択としては同じことになる。しかし結果については受け入れたがらない人が多い。

これは結局自業自得なのだが、こういう人達は元々無責任な性格なので、最初から自分で行った選択に対する責任を放棄してしまっている。その一方で、事が起こると結果的に行った自分の選択が無かったかのように振舞う。そう、ポイントはここにある。リスクとは無責任のブーメランである。責任を取れない人では、リスクヘッジはかけられない。責任とは、自分に対する保険でもある。無責任とは無保険状態と同じで、ひとたび事が起こればたちまち地獄へ逆落としだ。

ただ、運良く事が起きていないから一見平穏な生活を送れているように見えているだけだ。その典型例が、不祥事対応の不手際で火に油を注ぐサラリーマン社長だろう。社長は全てに経営責任があるにもかかわらず、本人が「甘え・無責任」な体質なので、その自覚がない。そうなると社内のガバナンスが甘くなるので、当然不祥事もおきがちである。その遠因は自分にあるのだが、そういう責任感が皆無である。だから、陳謝の記者会見が開き直りになり、ますます悪評が広がってしまう。

まあ、「自立・自己責任」で生きるか「甘え・無責任」で生きるかというのは、当人の選択でもあるし適性でもあるので、基本的には自由である。しかし、この両者は全く異なる人種である。そして、リーダーシップを執るポジションは前者の責任感のある人しか務めることができない。日本の組織の問題点は、リーダーを選ぶ際にこういう適性を考慮せず、年功制で選んでしまう日本的経営にある。日本が21世紀の世界で生き残れるかの鍵は、この悪弊を脱皮できるかにかかっている。

(22/06/17)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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