何にでも反対する人々





かつて産業社会の時代の大衆社会においては、数が力だった。だからその頃は、ショートヘッドとロングテールには圧倒的な立場の違いがあり、マスのメインストリームとマイナーなサブカルという「格差」があった。ある意味、少数派のロングテールは「社会的弱者」の地位に貶められていたということもできる。その分、サブカルには「マス、何するものぞ」という意気込みがあった。というか、意気込みがなくてはやっていけなかった。だからこそこの時代においては、サブカルはマスへのアンチテーゼでもあった。

21世紀に入り情報社会となると、マスのメインストリームたるショートヘッドは矮小化すると共に、多様なロングテールが並立する時代となった。ショートヘッドも「圧倒的多数」ではなく、並立するいろいろなクラスターの中で最大のものというレベルの存在感となった。確かに数的にはショートヘッドが過半数の支持を集めることも多いが、だからといって産業社会のような「善・悪」「勝ち・負け」といった二項対立した一次元の価値観軸での評価対象にはならなくなった。

これを象徴するものが、1990年代を通して起こった「ひらがなおたく」から「カタカナオタク」への変化である。「ひらがなおたく」は自身がマイナーなサブカルのクリエイターであった。というより、他に仲間がいないし社会的にも卑下されている状況では、自分がアンダーグラウンドでその世界観を創りだすしかなかったからだ。この時代の「おたく」は、ひっそりと自分たちの殻にこもって、自ら作りだしたその世界を楽しんでいた。

その一方で純粋消費者たる「カタカナオタク」は、並立するショートヘッドが社会的に認められたマーケットとなったことで登場した。「ひらがなおたく」とは違い、自分で世界観を創りだすことはせず、すでに市場に提供されているアイテムで気に入ったものを集めることで自己主張する。確かに彼等一人一人は今でもマイナーなマニアではあるけれど、同時に違う推しに費やしているそれぞれの購買力を足し合わせれば、全体としてはメジャーなマスでもあるという、量子力学的な世界になった。

もうちょっとメジャーなところでの変化として、邦楽シーンの変化を取り上げよう。1970年代の邦楽においては、歌謡曲とフォーク・ロックという対立構造があった。しかしこれはメジャーで主流である産業音楽としての歌謡曲と、マイナーでアンダーグラウンドな手作り音楽としてのフォーク・ロックという構図であった。そこには軸が一つしかなかったのだ。その軸の中で、メジャーになって大衆の支持を得るものと、マイナーながら濃いファンに支えられるものとに分けられていた。

この構造はこの時代に特徴的なもので、60年代末の世界的な「若者革命」の直後ということもあり、当時「断絶」と呼ばれた世代間の構造変化と結び付けられて捉えられていた。これは広範に及び、メディアでも大衆が支持するテレビのプライムタイムと若者が支持するラジオの深夜放送のような棲み分けがあった。ファッションでも、一般の大人向けのファッションと、ジーンズにTシャツの若者向けファッションとが対立的に捉えられていた。

しかしJ-Popの時代になると、そのようなジャンル分けは意味を失い、多様なテイストを持ったアーティストが並列的に活躍して、その中から大ヒットも出てくるというフラットな構造になった。そもそもJ-Popのスターは、ロックアーティスト性とアイドル性、歌謡曲性全てを兼ね備えているところが特徴的である、それだからこそ邦楽界の主流となることができた。このような動きが、Windows95とインターネットが登場して情報社会化が急速に進んだ90年代に現れたというのは象徴的である。

どのようなものも等価にアクセスでき、その中から自分に一番しっくり来るモノを自由に選べる。回転寿司の前の純粋消費者、これが情報社会の生き方の基本である。この変化についてゆけず、産業社会の「数の理」にどっぷりと浸ったまま、そこから抜け出られない人たちもまだ相当数残っている。「情弱」といわれる人達である。彼等は情報機器の操作ができないのではない。情報社会の掟が理解できないから、社会の変化についてゆけない人達なのだ。

さて時代に取り残された人達といえばいつも取り上げる、筒井康隆先生が怪作「90年安保の全学連」で予言した、左翼・リベラル・ツイフェミの皆さんである。彼等がなぜあのような行動をとるのかといえば、それは情弱だからということになる。情弱だからこそ、現実社会のドッグイヤーの変化に付いていけず、昔からのドグマに固執し続ける。反対することがニヒルな反主流の主張になるという70年代的な価値観を、勘違いしたまま今でも保っている。

左翼・リベラル・ツイフェミというと権威主義、全体主義と共に教条主義というのが特徴である。教条主義とは、現実を直視せず、「経典」に書かれたことだけがひたすら真理であると信じてそこにしがみつくことを意味する。これこそ、情弱の特徴そのものである。情報社会においては、自分で情報を集め、自分で考えて、自分で判断することが求められる。それが苦手だから、経典を丸呑みする。この傾向は、「革新勢力」がそれなりに影響力を持っていた1960年代・1970年代においてもすでに顕著にみられた現象であった。

そういう意味では、そもそも左翼、特に組織力の強い既成左翼政党の中には、最初から情弱体質がビルトインされていたということができる。というより、自分でモノを考えるのが不得手な情弱だからこそ、左翼的主張に惹かれるという因果関係を見出す方が正解なのだろう。社会の情報化が進めば進むほど彼等は一層住みにくくなり、主張を先鋭化させるだろう。しかし、彼等は情弱な絶滅危惧種なのだ。情弱でも生きてゆける保護区でも作ってあげたほうがいいのかもしれない。



(22/06/24)

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