情報社会における記号





「メラビアンの法則」というものがある。例の「人は外見が九割」の元ネタになったものだ。メラビアンの法則とは、元来はコミュニケーションの際に何の情報に基づいて信用するかを研究したものである。コミュニケーションの要素を「言語情報」「聴覚情報」「視覚情報」の3つに分けると、その影響力は言語情報が7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%と分析した。テキスト的な情報内容はほとんど影響がなく、9割以上が外部的な情報に基づいていることがわかった。

現実の状況としては、医者が不安そうな顔をして「大丈夫です」と言ったときには、ほとんどの人が大丈夫とは思わずヤバい状況にあると理解する、というようなシーンを思い浮かべてくれればいいだろう。コミュニケーションとしては、言っている内容はほとんど信用されず、相手はほとんど外見的な情報だけから判断していることになる。これを面白おかしく引用したのが「人は外見が九割」というコトバになっている。

実際、20世紀になって大衆社会が成立すると、それまでの階級社会のように自分の接する相手は皆既知の人という状況から、基本的に不特定多数の見ず知らずの人と接する状況に、社会構造が変化した。こういう社会において秩序を保つためには、外見から相手の人となりを判断することが必要となり、それが社会的なルールとなった。「メラビアンの法則」はこういう大衆社会の掟がもたらした結果ということもできる。

「外見から相手を判断するルール」が出来上がると、それが社会的な記号となる。信頼感のある人、まじめそうな人、怪しい人、変な人、云々。それぞれ誰もがそう思う外見が、社会的な記号となってくる。そうなると今度は外見の記号性を纏うことで、あたかも自分の属性がそうであるかのごとく見せることができるようになる。それに加えて学歴などの「社会的スペック」も同様の社会的な記号性を持っている。

陸サーファーが、サーフボードを車に積むことで、実際にはサーフィンはできなくとも、他人からはあたかもサーファーのごとく思ってもらえるというアレである。ファッションの流行は、そのコーディネーションが持つ記号性を纏うことで、他人からは「ファッション感覚が鋭い人」と思ってもらうことが、潜在意識の中でのモチベーションとなっている。学歴詐称や経歴詐称が横行するのも、記号を纏いたいからである。

このように産業社会においては、群衆の中の人間は外見で判断された。それは、情報がブラックボックスだからこそ成り立った掟だ。情報がブラックボックスではなくなる21世紀の情報社会においては、人は会う前から相手の情報に接することができるし、それによって相手を判断することができる。群衆の中の不特定多数が外見だけで相手を判断せざるを得なかった産業社会の20世紀とは違う、当然異なる秩序が出来上がるはずだ。

学歴だ、ファッションだ、乗っているクルマだ、住んでいる家だ。産業社会の大衆社会においてはもっとも重要視された纏っている外見的な記号性に価値がなくなるのが、情報社会の掟といえる。しかし「成りたがり」や「あこがれ」が人間の性と考えると、外見やスペックに変わる何かが記号として注目されるであろう。それでは、情報社会における「社会的な記号性」とはどういうものが基準になるのだろうか。

情報社会の特徴は、すでにここでも何度も述べてきているように、AIが人間を二つに分けるところにある。「コンピュータを使う人間」と「コンピュータに使われる人間」である。そしてその違いは、無から価値を生み出せるか、既知の知識の組み合わせしかできないかにある。その分、価値を創造できる人間、情報ネゲントロピーを生み出せる人間の価値が著しく高まることは間違いない。

すでに現実に起こってる、SNS等での人気コンテンツの広がりが参考になるだろう。SNSにデータをアップロードすることは、誰にでもできる。しかし、面白く話題を呼ぶコンテンツを創作できる才能を持った人は限られている。こういう才能を持った人は、SNSでなくても小説やマンガ、映像といった他のジャンルに挑戦しても成功したに違いない。インタラクティブメディアは、客からのリアクションがすぐに返ってくる点こそ既存の媒体と異なるものの、ウケるために必要とされる能力は全く一緒である。

さらに過剰なコンプライアンスを問われる既存媒体や大型イベントとは異なり、出せるネタの範囲もかなり広いので、発想が豊かな人ほど自由な展開が可能になる。。だからメジャーで成功した芸人が、マスメディアでは出せない過激なネタを引っさげて、Youtubeでも人気を集めることは多い。このような事情があるからこそ、アップロードこそ誰でもできるものの、話題を呼んだり人気になったりするコンテンツを創作できる人は極めて少数の特定者ということになる。

その他大勢の一般人の中には、面白いネタをリツイートして広めるのに一役買っている人もいるが、彼はコンテンツのクリエイトには一切関わっていない。しかし本人はリツイーとしただけで、何かその中身に関わったような気になっているのも確かだ。ここにヒントが隠されている。産業社会においては、外見を真似ることで記号を背負い、「自分がそちら側の人間」であるかのごとく振舞ってきた。

情報社会では付加価値を生み出す「発信者側」に立っていることが、一番の社会的記号性となるのだ。自分は付加価値を生み出していないのに、あたかも「発信者側」のように振舞う連中が続出するようになるだろう。今でも「パクツイ」しまくっている連中がいるが、あれを大勢がもっと大々的にやるようになるのだろう。しかし、ファッションでもファッションリーダーと単なるフォロワーの違いがすぐわかるように、わかる人が見ればすぐわかってしまうに違いない。

とはいうものの、産業社会においては外見的に成り切るためのラグジュアリーファッションや高級車が大きな市場になっているように、情報社会においては「発信者側」を装うためのビジネスがいろいろ登場してくるに違いない。もしかして、スタバでMacBook開いてる(でも、Instagramとか見てるだけ)なんていうのが、そのハシリとして回想されるようになるのだろうか。けっこうすでにいるんだよな。そういう人。



(22/07/08)

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