チャレンジできない人





人類の歴史とは、地球の歴史から比べればごく僅かなものでしかない。地球の歴史を1年にまとめると、猿人の登場が大晦日の紅白歌合戦が始まる頃。考古学ではなく歴史の対象となるのは、「行く年来る年」でクライマックスの除夜の鐘の中継が始まるころである。地球の悠久の歴史の中ではほんの一瞬でしかない人類の活躍する時代だが、その変化の激しさたるや地球史上でも比類なき存在感を示している。それほどまでに人類の進歩は驚速で大きなものである。

それではその人類の進歩をもたらしたものはなんだろうか。それは人類だけが可能性にチャレンジする心を持って生まれたところにある。リスクを取ってでもチャンスに賭ける。それはそれまでの野生動物にはない大胆な生き方だった。多くの生物が畏怖する「火」を手なずけ、自ら活用する道具としたことで文明が生まれた。新たな土地を求めて冒険することで、それまでのどんな生物もなし得なかった、同一種が自力で地球上を制覇することができた。

このチャレンジする心を生み出すものこそ、競争である。人間は競争を好む本能を持って生まれたからこそ、短期間で地球上を制覇し文明を築くことができたのだ。だから競争を否定したら、その瞬間に人類の進歩は止まる。競争こそ、人類のエネルギーの源である。もちろん、個人的には競争が得意な人と苦手な人がいるだろう。しかし、人類として競争をやめてしまうことがあれば、そこで人類の歴史は終わってしまうだろう。

さて、個人的に競争が苦手なあまり、競争自体を否定しようとする人がいる。これは主に、自分が競争で敗者となったときのリスクを必要以上に嫌悪しているために引き起こされるものである。こういう人達は、負け方が下手なのだ。それは負けを認める勇気がないからだ。目先の競争に負けても、またチャレンジすればいいし、また別のピッチでチャレンジしてもいい。競争原理である以上、どんな場合でも機会の平等は保たれ、門戸は開かれいている。

競争には勝者と敗者が生まれるのはつきものだ。そこで大事なのは、勝負がついた後のフェアさクリーンさである。クリーンさには勝ったほうが奢らないというのもあるが、負けたほうがグズグズ執着しないというのも重要だ。スポーツの試合と同じだが、キレイな負け方というのがある。これができるかどうかが、競争原理を受け入れるかどうかに繋がるし、チャレンジできるかどうかにも繋がる。

要はこのフェアネスとは、分をわきまえて、あっさり負けを認めることができるかどうかのことである。競争原理を否定したがる人は、どうもこのフェアさクリーンさに欠けているようだ。いつまでも屁理屈でゴネて自分の負けを認めようとしない。最初から決まっていたルールに後からいちゃもんを付ける。入り口に機会の平等が貫徹している以上、その結果はどういうものであっても受け入れなくてはいけないはずだ。しかし、彼等は自分に都合の悪い結果は決して受け入れない。

どうもこういう輩は、最初から勝ち目は無いことも、自分が弱くて負けることもわかっているようだ。それならそもそも勝負に参加しなければいいのだが、それでは面子が廃る。だからこそ、最初から自分の負けを予測し、その結果に対して構えている。こういう確信犯だから、何が起こっても負けを認めないのだ。まあどう生きるかは個々人の自由なので、チャレンジしようがチャレンジしまいが勝手だ。しかし、こういう人達は往々にして次の手に出る。

困ったことにチャレンジの嫌いな人は何度も負け続けて屁理屈や見て見ぬふりでは済まされえなくなると、なぜかチャレンジする人の足を引っ張ろうとするのだ。自分はどうやっても勝てないが、かといって負けるのもイヤだ。そこで、勝ちそうな人の足を引っ張って勝たせないことで溜飲を下げようということになる。その典型が「みんなで平等に不幸になる」ことを志向する、社会主義者・共産主義者であろう。

しかし、チャレンジと競争が人類の進歩の源である以上、こういう人が多ければ多いほど、社会は進歩から遠ざかるわけである。確かに20世紀の歴史を見てみれば、社会主義・共産主義を取り入れた諸国は、人類全体の進歩や発展からは大きく取り残されたために崩壊してしまったことを見てとれる。それは大いなる不幸ではあったが、人類史的な意味では偉大な社会実験であった。まあ、進歩を否定することも思想信条の自由なのでやめろとは言わないが、やるなら自分達だけで勝手にやってくれ。他の人類に迷惑をかけるんじゃない。



(22/07/15)

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