アメリカの強み





アメリカが建国以来200年も経たない内に世界のトップに立てた秘密は、アメリカ社会に広く共有されている、フェアネスや平等性の考え方によるところが大きい。アメリカ的なフェアネスとは、まさに門戸開放。機会の平等性が貫徹しているかを重視するところにある。1899年のジョン・ヘイ国務長官による、中国進出における「門戸開放・機会均等」の門戸開放政策も、このアメリカの基本理念を忠実になぞったものといえる。

この考え方の基本は、スポーツのルールのように、フェアに勝負ができる状況が担保されているかどうかを重視し、これが満たされている状態を平等として捉えるところにある。誰でも参加できる状態で、正当に勝負して、そこで勝ち残った者こそ真のチャンピオンとなる。限られた参加者しか認められないゲームの勝者では、本当の勝者足りえない。全ての者にチャンスがある競技を行い、そこで勝ち残って選ばれることが大切なのだ。

これを実現するためには、出自や過去経歴などにより参加を拒否することがない「機会の平等」が実現していると共に、不正なく勝者が勝者と認められる競争原理が貫徹していることがなにより重要である。この二つが保証されている限り、最終勝者が最強であるという栄誉も保障される。逆にこれが実現していない限り、そのゲームでの勝者は最強のチャンピオンということにはならない。

この原則が社会全体に貫徹していたのがアメリカである。アメリカン・ドリームとは、「門戸開放・機会均等」により誰にでもチャレンジするチャンスが与えられているという意味である。そこにはチャンスがあるだけであり、決して成功が保証されているわけではない。しかし、歴史的に見るならば、階級や民族などによる制限がかかり、誰にもチャレンジするチャンスが与えられなかった国や時代の方が多く、その意味では斬新な考え方であったといえる。

このためには、門前払いや足切りはあってはならないことであり、こういう謀事に関しては極めて厳しい風土である。チャンスを封じるための独占や差別については、それ自体を悪とみなす傾向が強い。この結果アメリカの独占禁止法も、入口での競争を妨げる不正には極めて厳しくなっている。その一方で、フェアな競争が行われた結果として高シェアを獲得するのは、いわばチャンピオンへの賞賛のようなものと見做して否定しない。

かつてはアメリカにおいても人種差別が横行していた。特に南部においては、歴史的な経緯から20世紀に入ってからも顕著な差別があった。しかし1960年代に公民権運動が盛んになると、WASPのエスタブリッシュされた白人の間でも、機会の平等を奪って門戸を閉ざしているのはおかしい、という文脈においては受け入れられパラダイムシフトが起こった。差別はアメリカン・スピリットに反するものであると理解されたからである。

社会として大事なのは、門戸が開いて機会均等であることであり、その後各個人が成功するかどうかは各個人の才能と努力の問題とされ、それは個人の問題であって社会の問題ではないと考えられている。人種差別によって機会が奪われるのは大いに問題だが、貧困は結果なので、人種によって貧困層の比率に差があっても、それは社会としての不公正さという面では問題はないという考え方だ。

アメリカでオーディションをやると、全くお門違いの人や、お呼びでない人もたくさん来てしまう。しかし、その手間も含めてチャンスを与えることが重視されているのだ。確かに多くの場合手間を増やしてしまうだけなのだが、時として今回は適役ではないがスゴい才能なので今度はあて書きで使ってみたいと思わせたり、わざわざ本を書き換えてもこいつに役を与えて使いたいと思わせたりするタレントも出てくるから面白い。

確かに「門戸開放・機会均等」を実現・維持するための社会的コストは大きい。しかし、それが生み出す社会的活力は極めて大きい。このコストを、社会の発展を生み出すための投資と考えられるところが、アメリカ的な強みということができるだろう。そういう風土があるからこそ、日本だと忖度して自主規制してやりたくてもやらない人が多くなるのだが、どんどんユニークな人材が発掘されてくる。この強みこそ、経済力や技術力以上にアメリカの底力を支えているといえよう。



(22/08/05)

(c)2022 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる